★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

死を抑圧しない大学

2025-03-13 23:43:04 | 文学


衛門の督の殿には、渡りたまはむとて、女房に装束一具づつして賜へば、ほどなく今めかしう、うれしと思ひけり。中納言殿には、物をだに運び返しに人やりたまへど、「さらに入れだに入れず」など言へば、北の方、手を打ち、ねたがる。「いかばかりの仇敵にて衛門の督あれば、わが肝心も惑はすらむ」と、まどふ。越前の守「今はかひなし。『物だに運び返さむ』と申せば、『早うそれは取られよ』とは、なだらかに宣はど、人々さらに入れねば。いさかふべきことにしあらぬば」。たけきこととは、集まりて、のろふ。

呪いが土地に憑く、とはこういう情況をいうのであろうか。それは冗談としても、地券を持っている持ってないでこれほどのことが起こるのは当然であるようであるのに、中納言家はあまりに迂闊である。むかしから、その土地の持ち主は誰かみたいな問題で人が殺されたりしているわけであるが、現代だって似たようなものである。それが暴力で解決しないように、厳しい税金と煩雑な手続きが課されているのが現代であるが、人間がこういうことにずっとたえられるのかどうかは、分からないと思う。

ずっとトレンドになっているコミュニケーション能力とやらは、相手に柔らかくも厳しくも攻め込むような能力であって、仲良い友だちをつくる能力とも優しさとも観察能力とも違う。近いのは、証拠を挙げて相手を説得する能力であろう。証拠(エビデンス)とは、必要な場合の武器に過ぎない。これは、物事を死に行く生=生活に即して「つくる」「常識」(戸坂潤)とは無縁の武器であって、――とたえば、アイデアを出せという奴はだいたいアイデアだしたことないし、出しても自分でやらずに逃げ、そして成功したら自分がやったと言い張る。これはその成功した物事が証拠だからだ。かんがえてみると、イザナギはそういうやつだったかもしれない。イザナミがおそらく神を生み出した疲労で死んだから、それを棄ててイザナミが生み出した様々な神を統べる生の立場を勝手に僭称する。この統制というのが、土地を奪う行為と極めて近似的であるのは言うまでもない。「国家」というものがそうである。

だいたい「生」の立場、「生産」の立場というのは「死」の隠蔽というきわめて欺瞞的な立場なのである。我々はこのことを生きのびるためにだかなんだかわからんが、簡単に忘れる。噂では、ある教★学部の新入生のガイタンスで「君たちは大学に入ったのではない。教員養成の専門学校に入ったのである」と言われ仰天した、という話を聞いた。まあそういうやばいところに教員志望のやつが果たしていくのかなと思うが、結構行くのだからよのなか佳く出来ている。大学とは死を抑圧しない場所であるべきだ。その死は、イザナミのような神を生み出すような事態であって、教員養成の専門学校とは生を統制するだけの生産の場所である。

コミュニケーション能力?であいつは出来るあいつは出来ない、みたいなことを陰口を言いあい、果ては学生を評論している集団は、群れとして醜悪という以上に、自分たちのコミュニケーション能力?が「人間の全体性」の長所だと思い込んでいるというのが最悪である。だから、一部突出した異形な能力や落ちこぼれを差別するのである。これは結果的には、偏差値エリートが全能感におぼれるのと同じ結果に陥っている。似たもの同士だからいがみ合っているに過ぎない。


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