村上の御時に、宣耀殿の女御と聞えけるは、小一条の左の大臣殿の御女におはしけると、誰かは知りたてまつらざらん。まだ姫君と聞えける時、父大臣の教へ聞え給ひけることは、『一には、御手を習ひ給へ。次には、琴の御琴を、人より異に弾きまさらむとおぼせ。さては、古今の歌廿巻を、皆うかべさせ給ふを、御学問にはせさせ給へ』となむ、聞え給ひける
以前、授業で、「諸君ときたら、お習字、お琴やピアノはやったことがあるかもしれませぬ。しかし古今集二十巻を習った人はあまりいませんね。だからダメなんです。恋に落ちたらまず和歌でやりとりなさい」と言ったら、女御たちがきゃっきゃしていたが、そういえば、これが通じるのは国語教室だからということであろうか。考えてみたら、和歌だけが足りないと思っていたわたくしの感性はほぼ清少納言の考えに近い。
わたくしの脳裏に何故。「3R」つまり「読み書きそろばん」が浮かばなかったのか謎である。わたくしは本当に近代の生まれなのであろうか。
読み書きそろばんは、近世以降の初等教育で必須のものとされている。
ある国で第一番の上手というお医者さんが、ある町に招かれて来ました。お医者さんは町に着くと直ぐ、
「ここの人はどうして一日を過ごしていますか」
と尋ねました。
町の人はこう答えました。
「別に変った生活もしませんが、私達は日の出前に起床し、日が暮れて床に就き、明るいうちはせっせと働いて日を送っています。又餓じい時はお腹を一パイにするだけ御飯を食べます」
と答えました。
お医者さんは、
「それでは私はここにおっても仕事がありません。そんな生活をする人達はいつも健全で医者の厄介になる事がありませんから」
と言ってさっさとここを立ち去りました。
――夢野久作「働く町」
夢野久作は、ときどきこのようなどのような認識があって書いているのか分からんものを書くことがある。労働者がそんな生活でいつも健全なわけがない。しかし、戦時下の家庭と社会活動で苦しむ婦人について書かれた「働く婦人」(宮本百合子)なんかを読むと、逆に夢野久作の主人公の性別の不明さがやや不気味に思えてくる。夢野の方が、労働の本質をよく分かっていたのではなかろうか。医者の厄介になることがない、これは結果的にどんな場合もそうだったのである。「ある国で第一番の上手」の医者は、つねに清少納言の周辺に急いで働きに出てしまう。
しかしだからといって、清少納言の界隈はやはり和歌に集中すべきなのであった。腹一杯食べなくても和歌をすべきなのである。