
事と物には因果あり。因は始なり、果は終なり、我々が玉の文字と身に在る痣子は、すなはちこれ因なり。もしこの玉と痣子なくは、何をもて伏姫上の、御子なるを知る由あらん。[…]この奇事の終はりなくは、玉に疵あり、人に痣子あり、無垢清白とすべからず。まことに仏法無料の方便、役行者と伏姫神の、利益か造化の小児の所為か、思議すべからず候」
思うに、因果がなにやらと言う人の、原因に対する意識は大概この程度である。「思議すべからず候」と言っちゃおしまいなのだ。だいたいに、人間の痣が消えたぐらいで、「無垢清白」になるわけがないではないか。この程度の認識の乱暴者たちが、科学主義とかエビデンスとか言っていることが、戦争責任の問題が流れてしまった原因なのである。
それから、ふと見識らぬ婦人が側にゐるのを思ひ出した。すると彼は妙に気恥しくなつた。空二は漫画の本を横に隠して、顔を婦人の方へ向けた。空二の眼に好色的な輝きが漲つて来たが、婦人は清浄無垢の表情をしてゐる。
――原民喜「雲雀病院」
言うまでもなく、清浄無垢なものは、好色的な眼差しによって逆説的に見出されるのである。救いという観念はその辺を分からなくさせてしまうのであった。救いというのは、例えば『夜露死苦現代詩』みたいな好色的なものをそのまま清浄無垢なものとみるのではなく、実際に教育し生活を整えることによってもたらされるのだ。坪内逍遙が「八犬伝」を批判したのを最大限評価したいとわたくしはさっき思ったのである。