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古き者どもの、さもえ行き離るまじきは、来年の国々、手をおりてうち数へなどして、ゆるぎ歩きたるも、いとをかしうすさまじげなる。
清少納言の底意地の悪さは、「すさまじきもの」の中で、除目に官職を得られなかった人たち、及びその関係者の様子を長々と描写したあげく、最後に、古くから仕えていてボスから離れられない人を上のように言っているところに顕れている。誠にすさまじい。
来年の欠官予定の国を数えたりしたり、――別にいいじゃないか。生きるために必死なんだよ、下僕たちは――。
「ゆるぎありく」は、体を揺すって歩くことであろうが、ここは意気消沈してふらふら歩くという意であるともとれるし、いままでゆさゆさと威張って歩いていた、ともとれる訳であるが、わたくしとしては、どちらでもいいや、という気がする。清少納言としては、プライドのある人たちだからふらふら歩いていても威張っている動作が抜けない様子を「いとおかしうすさまじ」といっているのかもしれない。
我々の身体は、脳の言うことを聞かないことがあり、普段やっていた動作を勝手に行うことがある。普段職場でなんとなく威張っている人は、外に出てもなんとなくそういう動作をしてしまうことがあるように。我々が深刻なのは、殆どの場合それに気づかないことである。
頭を使わず手抜きをしている仕事は、だいたいバレている。体がやや野放図に動いているから他人には分かるのだ。――それ以前に最近の人は妙な強弁が伴うので目をつぶっていても分かるのであるが。
そうなんです。歩く人は歩く人自身、歩くことによって貴重なものをうるのと同時に、歩いていく土地々々の人びとを、横につなげていくことになるのです。そして、そのことが、さらに貴重なことがらだと私は思う。ことにいま、日本がこのように混乱し衰弱しているさなかでは、まず日本人全体が横につながることほど大事なことはないと思います。
愛国のことを言うことは、言いたい人にまかせておいて、私はただなるべく歩いてみるようにしたいと思っています。
――三好十郎「歩くこと」
わたくし如きが言うのも何であるが、三好の限界はこういうことを言ってしまうことにあると思う。二宮金次郎がなかなかいいと思うのは、本を読みながら自分の体を制御しているから、案外こういう人は、これ以上危険なことはしない気がするからである。誤って崖から落ちるのが関の山だ。