にくきもの
なでふことなき人の、笑がちにて、ものいたう言ひたる。
完全に同意である。わたくしも気をつけなくてはならない。
老いばみたる者こそ、火桶の端に足をさへもたげて、もの言ふままにおしすりなどはすらめ。さやうの者は、人のもとに来て、ゐむとする所を、まづ扇してこなたかなたあふぎ散らして塵掃き捨て、ゐも定まらずひろめきて、狩衣の前まき入れてもゐるべし。かかることは、いふかひなき者のきはにやと思へど、少しよろしき者の式部の大夫など言ひしがせしなり。
式部の大夫なんてだいたい大したことないではないか。いまだって、近くはグループリーダーや遠くは政府の顔ぶれを見ろよ。まったくもって「いふかひなき者」ばっかりである。とにかく何かというと規則の恣意的運用ばっかり考えている卑しい馬鹿野郎ばかりである。清少納言もわたくしのように何十年もいらいらして生きてきたらしく、
蚤もいとにくし。衣の下に躍りありきて、もたぐるやうにする。犬の、諸声に長々と鳴きあげたる、まがまがしくさへにくし。
ここまでくるとはやく寝た方がいいレベルである。
今日、『レジェンド文豪のありえない話 総勢六十数余名の神をも恐れぬ…ご乱痴気』という本のなかで、「埴谷雄高」が鬼畜扱いされていた。それはいいのだ。しかし、
「埴谷に影響を与えたのは、アナーキズムと共産主義、そしてカント、ドストエフスはーであった」
とあって、にくきものに出会った。
最近、会議の資料や公式なメールも誤植の嵐である。宛名を書かないメールとかもあり、これも実際は恣意的運用の一角をなしている。恣意的なのは、意識ではない、かかる人間そのものなのである。こういう人間の特徴として、必ず現実や実践を唱えている。そういう輩は、理想と実践を対義語だと思っている。こういう意識上の形式性が、行為においては恣意性となって顕れる。現実において執念深くコンプレックスを自らの欲望に沿った形で晴らすのが人生の目的と化している人間は、そういう欲望を規制する「理想」を嫌うからである。もはや、分かりやすく言うと、実践信仰は悪意の塊だと申し上げてよろしい。最近は、そういう人間が「寄り添う」みたいな〈理想〉を掲げて執念深く自分の慰撫に必死である。欲望はつねに他者に向かって放射される、とはよく言ったものだ。わかりにくくなっているが、むかしなら「クズ」で済まされていた。それは他者に欲望を向けるなという禁忌である。たぶんそういう社会では、飲酒やヒロポンとかセックスなどの自律的快楽が一方で推奨されることになるわけである。