文フリで買った『愛大詩歌第弐号』をいま読了。マラルメからはじまり柊木快雄氏の評論でおわる構成で、短歌俳句もなかなかの尖り具合であった。
しかし、いまの文藝志望者が大変なのは、誰が尖っているのかわからない状態が長く――このことが分からない事態にある。坂口安吾の「白痴」なんかはとてもプラトニックなのだが、田中英光の「初恋」なんかと比べてみるとよくわかる。そんなわかり方を本人達はそこそこ分かっていたとおもう。しかし、研究者達にかえってそのことがなかなかわからない。作品論以降の顛末が悪かったのであろうか?西村賢太と田中英光の違いというのを無視して議論をするというのは重要なことだとおもうのだが、それは、坂口安吾みたいなのを横に置いておかないとわからない――というより実際に記述にまで行き着かない。
坂口安吾のことであるが、一見過激に見えて案外教科書に載ってしまう類いの近代文学というものあり。だから、むかしから安吾は藤村なんかと同時に読むべきだとわたくしは主張しているのである。
この前、伊藤左千夫の「ホトトギス」に載ったような小品を読んでみたが、わたくしの力量では困惑するばかりであった。