★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

落窪選挙

2024-10-27 22:35:34 | 文学


さすがに、おとどの思す心あるべしと、つつみたまひて、「落窪の君と言へ」と宣へば、人々も、さ言ふ。おとども、ちごよりらうたくや思しつかずなりにけむ、まして北の方の御ままにて、はかなきこと多かりけり。はかばかしき人もなく、乳母もなかりけり。ただ、親のおはしける時より使ひつけたる童のされたる女ぞ、後見とつけて使ひたまひける。あはれに思ひかはして、片時離れず。さるは、この君のかたちは、かくかしづきたまふ御むすめなどにも劣るまじけれど、出で交らふことなくて、あるものとも知る人なし。やうやう物思ひ知るままに、世の中あはれに心憂きことをのみ思されければ、かくのぞみうち嘆く。
  日にそへて憂さのみまさる世の中に心づくしの身をいかにせむ
と言ひて、いたう物思ひ知りたるさまにて


あはれお前はさっさと落選せよとは言いがたいので、落窪物語でもよむべし。継子いじめに怒り心頭、それが権力に対するなにかになるかもしれない。

わたくしぐらいになると、「今日投票行った?」と家のメダカからも言われる。勝手な想像だが、やはり家族を抱えていると投票ぐらいいかねばと思う人は多いんじゃねえかなと思う。わたしも家族がいなかったらメダカも喋るきがせんし。

それはともかく、むかし爆笑問題が「暴走族をおならプープー族と言うべき」と言ってたけど、闇バイトも、なにか別の言い方をかんがえるべし。しかしやってることがかわいげも何もないからひどいネーミングしか思いつかない。自民党でも民主党でも何でもいいが、空気を読むことで疲弊して必死に仕事をやれなくなると、人間かわいげがなくなるという事態だ。暴走族はただ走るのが好きだった面がかわいげをかもしだしていたのである。

かわいげがなくなると、人間エンターテインメントに走る。劇場型選挙とはそういうものである。

思うに、我々がかくもかわいげをなくしたのには、近代文学にあったようなヒステリックな叙情に対する評価をあやまってきたというのがあるとおもう。例えば、伊藤左千夫みたいなものの評価に失敗しているところがあると思うのである。短歌に対する評価はいろんな理由でどこかヒステリックになりがちなんだが、それも原因のひとつだろう。短歌だってほんとは被り芸みたいなところがある。これを「叫び」とか言っているうちになにか自らの感情を見失った。

例えば、英霊というものは何か被りたがるものであってその代表的なあれがゴジラである。最近はかぶることもやめてただの絵になった。ほんとの「英霊」があるかのような馬鹿馬鹿しい評論が増えているが、「叫び」の存在論化みたいなことが起こっているのであろう。たぶん、根岸短歌会が子規亡き後どことなく厳格なボスの不在に悩んでいたことと関係がある気がする。

例えば、組織のなかの手続きを厳格にしただけで、その組織はかなりまともになる。意見徴収の場が知らないうちに合意形成のエビデンスに使われるみたいなことを許していると、FDなんかも合意形成の場になってしまうのである。そんな緩さが許されている場合には、合意形成は、何か英霊や叫びに左右されるわけであるから、――同時に、空気読まずに意見を言うたった、あるいは放言したおれがエライみたいな人の存在をそのご本人を筆頭に過剰に評価してしまうことになりかねない。


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