「好きにしたらいいよ」と言うと多くの子どもは「ロックスターになりたい」とか「マンガ家になりたい」とか「モデルになりたい」とか、それはちょっと無理じゃないか的な願望を語るので、親御さんとしても簡単には首を縦に触れない事情があるんです。でも、これは心を鬼にして(というか仏にして)、そういう夢想を語る子どもに対しても「まあ、好きにしたらいいさ」と言ってあげるのが親心というものだと僕は思います(頷いてくださる親御さんは少ないとは思いますが)。
でも、自分の経験を踏まえて申し上げますけれど、子どもの進路について「まあ、好きにしたらいいよ」という宥和的対応をしておくと、それからあとの数十年にわたる親子関係はわりと穏やかで、友好的なものになります。
――内田樹「今中高生に伝えたいこと。進路について」(http://blog.tatsuru.com/2024/10/20_0940.html)
ここ10年ぐらい、ある批評家に高校生が質問したのを、学生が答えて、その批評家が答えたものと比べてみる、というのを授業でやってみてるんだが、10年前と比べてわりと学生の答えが徐々にその批評家の見解を乗り越えつつある気がする。これが時代というやつかのう、と思う。しかし、決してレベルが上がったわけではない、ただ乗り越えたということだけだ。
うえの内田樹氏なんかは、どことなく昔の高校の先生を思わせる人で、世の中こんなもん、みたいな常識を言う人である。こういうタイプが最後の抑圧者としてあった意味を考えなければならない。内田氏も東大出で、以前、まるで芸風が違う田島正樹氏が「クレバーなかんじ頑張って」みたいな応援をブログのコメント欄でしていたのをみた気がする。こういう現象はわたくしには出現しようがない気がする。東大出身、なんとか大出身というのは、大がかりに造成された「氏」という気がする。むかし、芳賀紀雄先生の論文で学んだが、律令制度で「氏」が個々の家へ解体し、それが「萬葉集」の作風の変化に繋がったという。そういうことは、現代においてもあるかもしれないわけである。いまだったら、この「氏」への意識は学閥みたいなものである可能性はあるかなと思った。「氏」は解体しながら、のちに大々的に平氏とか源氏となって幽霊のように復活した。いずれそういうことも起きるのかも知れない。