男 話がそこまで来たなら、僕も云つてしまひませう。僕は、今迄、恋愛の過程でしかないやうな、さういふ友達づきあひほど、異性間の間柄を月並にするものはないと思つてゐました。それで、どうかして、自分も男であることを忘れ、対手も女であることを忘れて、しかも、お互に、異性からでなければ受けられないやうな……親しみ、と云つては悪いかな、まあ、一種の親しみですね、さういふものを感じ合ひ、それによつて、お互の生活を新鮮にして行きたいと思つてゐたのです。
女 あたしは、異性の友達といふものに、それほど期待をかけてはゐないの。生活を新鮮にするのは、新しい恋愛だと思つてゐるんですからね。しかし、恋愛のできない男――かりにさういふ男があるとすれば――そして、さういふ男性を友達にしてゐるとすれば、それはそれでまた面白いと云ふ程度なの。しかし、あたしは、あなたを恋愛のできない男の一人だとは思つてゐませんわ。
――岸田國士「恋愛恐怖病」
恋愛したくねえ若者が多いという都市傳説があるが、本当だとしたらまあ損だという感じがしないではない。なぜなら、「恋する乙女」とか「恋する青年」はそれだけでいいことしているみたいに見てくれる人はいるからだ。近代の「恋愛幻想」がほんとに事切れる前に褒められておかんと本格的に「恋愛→心中」みたいな時代が来るとコマるのではないだろうか。
とはいえ、人間は「結婚しないマイノリティ」に向かって進化しているのかもしれない。大学を含めた学校が困惑しているのは、毎年新手の問題児?がでてくるからで、――どうみてもこれは本人の意思を越えた種の生き残り戦略か進化としか思えない。マジョリティの対策を遁れ我々は問題児へと進化しているわけだ。
学者の世界もマイノリティに向かって進化する。例えば、和辻哲郎とくるとすぐナショナリズムが~、という反応を起こす人はマジョリティだったのかも知れないが、いまは激しく馬鹿にされている(私だけかも知れないが。。)。思うに、そのマジョリティとやらは、一種の欠如を埋めようとした過剰反応によってでてきた(これも進化なのかも知れない)からである。
ヒュウマニズムの流行もパーマネント・ウェーヴの流行と同じ性質のものだぐらゐの常識を備へてゐないと、現代に処する事は難かしいのである。
小林秀雄は、「鏡花の死其他」でこのように言っている。小林自身は、花田★輝みたいに、隙間産業に注目して自らの死後、次世代のヒーローになる戦略をとらず、いまのマジョリティはマジョリティじゃないんだと言い張ることにしたのだ。これは、ある種の現実否認である。どこかで小林はなにかの法則のようなものに押されながら世の中に押し出されてしまった自覚があった。確か呂政慧氏の研究で言われていたのだが、――近代においては複雑な合唱曲よりも単旋律の曲の方が国を超える可能性があるように思えるが、逆で、合唱曲を作れない国では歌詞の翻案のニーズの方が大きく作用してしまうことがありうるそうだ。一歩先に音楽の近代を一部成し遂げた日本の合唱曲が音楽的に複雑であったにもかかわらず、歌詞を翻案することによってその作曲能力を持たなかった時代の中国に越境してしまった、というような研究であった。思うに、日本におけるクラシック音楽もその作成能力のない日本に越境するさいに、――小林秀雄とか吉田秀和とかが、音楽を凌駕したその翻訳のニーズの権化みたいに出てきたかも知れないのだ。
しかし、我々の社会は、欠如を欠如としておもわず、おなじ平面に「合格」させるみたいな平等戦略をとるようになった。本来的にロストしているものなどない、というわけだ。そういえば、ずっと議員をやっているような人に対する落選運動を嫌う人(――かなりの受験エリートであった)にむかし聞いたことあるんだが、受験に失敗しろみたいにきこえていやだから、逆に応援してしまうと。