とにかく、あめりかの空気は明るい魔術だ。一種の同化力をもっている。子供にすぐ反応する。行って一月も経たない子供が、喧嘩する時にもう日本人のように手を挙げずに、すぐ拳闘の構えで向って来る。それはいいが、一ばん始末のわるいのが、ちょいと形だけアメリカ化しかかった欧州移民の若い連中だ。きざな服装にてにをはを忘れた英語を操って得とくとしている。あるとき僕が、日本人のH君と公園のベンチに腰をかけて、何か日本語で話し込んでいたら、こんなのが十四、五人集って来て、
「おい、支那人、アメリカにいる間は英語で話せよ。」
ここにおいてかM大学弁論科首席のH君、歯切れのいい英語で一場の訓戒を試みて、やつらをあっと言わしたのだが、そのときは僕も愉快だった。この民族的な痛快感というものは一種壮烈な気分である。が、それはそうと、外来移民の子弟と黒人とユダヤ人の問題をどう処置するか――これが今後のアメリカにおける見物だ。
――谷讓次「字で書いた漫画」
『課長島耕作』が差別的策動をしたとかで騒ぎになっている。
わたくしは、子供の頃高校までほぼ漫画を読んでいないせいか、漫画に対する記憶力が悪い。子供の頃読んだ文章はわりと覚えているのに。『課長島耕作』もどこかで読んだはずだと思っていたが、実際はサラリー万金太郎だった。――というか、彼の妻の柴門ふみの方がはるかに優秀なのではないか。読んだことないけど。とにかく、有名人の夫婦でよくみてみたら、妻の方がはるかに優秀だったみたいなことが多すぎる。
多すぎる。これが問題だ。幇間が改革者の顔をしているのは例外ではなく、極めてよくあることであるが、そういう常識を忘れさせるのは数字である。空気ではない。たいがい、見える化は見えない化に過ぎなかった。
きのう、希望的観測として、批評家というのは教育者にかなり近い、と授業中言ったが、そういう意識を持った批評家はかなりまた別者である。見えないものを見るのが言語だ。言語が新たな感覚器官だからであるが、我々は、その多さ――数化に錯乱する。その錯乱をしらないものが批評家の場合、結局は数しか見えなくなってゆくのであった。
上の「字で書いた漫画」というのは、すごく危機的な意識をあらわしたものである。字は漫画になるのか?まだ、なっているうちはいいのだが、谷の言う『処置』はすぐカウントされ始める。