吾々が最も期待するものは、この日本ファッシズムの歴史的な且つ時事的な分析的批評である。歴史的なかつ時事的な仕方に於ては、この問題は今まで殆んど手をつけられてさえいないと云っていい位いだ。これあれの思いつきに基いた日本ファッシズム評論は限りなくあるが、併しまだつき入った見渡しの利いた労作を見たことがない。日本の古来の国民生活の史的唯物論的研究は着々として進められてはいるが、まだその中核的な要約にまで達しているとは考えられない。時代の時事的な洞察と、国史の歴史科学的分析とによって、一日も早く又一言でも確かに日本ファッシズムの本質が明るみに持ち出されることを吾々は期待する。――併しそれにつけても云いたいのは、ファッシズムを克服出来るものは、リベラリズムではなくて唯物論だということである。
――戸坂潤「唯物論とファッシズム」
昨日は、ズーム参加で田野大輔氏と檜垣立哉氏の登壇するファシズムのシンポジウム(専修大学)に行ってきた。ハイデガーの集まりなんかでもそうだけど、――自分にも現在にも過去にも未来にも隣の人にもすべてに気をつかわなきゃいけないところのファシズム関連の集まりはヒリヒリしてていい雰囲気だ。むかしの近代文学の議論みたいである。本来的に当事者性というものはこういう関係性のかたちをしているのではないだろうか。ファシズムは未完であり継続中でもあるのであろうが、それはファシズム(及び其の議論)が癌みたいなもので、あらゆるところに入り込んでいると信じられている。歴史ではなく、我々はわれわれの本性みたいなものに接近したような気がする、それがファシズムである。気がしただけなので、小役人の通常業務のなかにもそれがあり、みたいな議論ができるが、常にできるだけのような気がする。
――昨日は携帯で本業の学会にも参加してたから、今日は五分の一聖徳太子ぐらいであった。
シンポジウムから退去した後、「マッドハイジ」でも見るかと思ってしまったが、わたくしも癌細胞にやられたに違いない。
ほんとただ生きててもしょうがないわ、と思わせるのもファシズムであろうか?そうではないだろう。むしろただ生きさせるのがいまやファシズムだと書いた方がテストでは高得点がつく。
中澤系の歌集の解説で、宮台真司氏が、97年以降を蝕の時代みたいに言っていた。体感としてはよくわかるが、いま中澤系の歌をみるとどこか戦前を感じる。それは、別に中澤の歌が、前川差美雄みたいだとか、オウム以降がファシズムかなのだと言いたいわけではない。
ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ
このあとがある。後があるというかんじが戦前なのだ。
たしかにここには生に必要なバイナリが欠けている。我々はこの無限反復=戦前を避けるために、二項対立による事態ののりこえを常に試みる。たぶん差別もそうである。最近は、口を開けばみんなマイノリティとマジョリティの話しかしていないが、――マイノリティの側に立って世直しをすることと、マイノリティを迫害することが下手しないでも近しい関係にあることが分からない人は非常に危険である。。我々の認識は、ピントが合わないカメラのような状態にいつもなる可能性がある。マジョリティにみえていたものが少数派に見えたりというのは、ピントがあわなくなった認識にとっては普通のことである。そもそもマジョリティとマイノリティという言葉自体が、その実態をボケたピントにさせるものである。いや、ピントがボケるとかいっているからいつまでもピントがあう希望が持ててしまうが、言葉はただの平均的な感覚器官であって、もう別のものをみてしまっているに等しい。
20代の頃、批評理論だなんだいきがっていた頃だが、――そのときもたぶんいちばん得意なのは古典の和歌の暗記であり、和歌が好きな女子が好きだった。半期の授業で短歌の授業やってやはり短歌が好きだと判明した。