「この木に、水をやらんと枯れてしまうよ。」と、子供はいいました。
すると、酒に酔っている男は、怒りました。
「なに、いらんことをいうのだ。さっさといってしまえ!」といって、小さなコップに残っていた、ウイスキーを子供の顔に、かけました。子供は、目から、火が出たかと思いました。
子供は、その日の暮れ方、涙ぐんだ目つきをして、ふもとの林の中へ帰ってきました。小舎の中には、父親が待っていました。
子供は、この日、街で見てきたいっさいを父親に向かって話しました。
古い大きなひのきの木は身震いをしました。
「いま、子供のいったことを聞いたか。」と、年とった大たかに向かっていいました。
「人間は、すこしいい気になりすぎている! ちっと怖ろしいめにあわせてやれ。」と、たかは、怒りに燃えました。
「俺たちは、今夜、あらしを呼んで、街を襲撃しよう。」と、ひのきの木は、どなりました。
「私たちの力で、ひとたまりもなく、人間の街をもみくだいてやろう。」と、たかは叫びました。
たかは、黒雲に、伝令すべく、夕闇の空に翔け上りました。古いひのきは雨と風を呼ぶためにあらゆる大きな枝、小さな枝を、落日後の空にざわつきたてたのであります。
――小川未明「あらしの前の木と鳥の会話」
檜でさえ、腕をふるわせて人間への憎しみを表現しているというのに、我々は五指の機能をさぼらせつつある。視角優先が近代だとか言うがだからなんだよみたいな認識がだからなんだよなのは、ほんとに眼しか使わないような状態の人間を目の前にしていないだろうと思うからだ。
ときどき高校などに訪問してお話しするときに、PowerPoint資料でやったりするんだが、――時間が余って板書で説明した部分だけがちゃんと伝わっている。PowerPointは授業で絶対に使わないが、やはり簡単な内容でも伝わりにくいと思うからだ。(PowerPointでの授業は、こういう資料を作らないと教員がさぼっていると認識する輩に媚びているのではないかと思ったりもするが、――そういう意見を教員や学生から聞いたことがあるからだ)聞いている側がメモをとらない場合でも、板書だと脳が擬似的にメモをとるような動作をしているにちがいない。
とはいえ、人間的なものかわからない動きというものもあり、この前、ブラームスのピアノ四重奏曲第一番の一部を練習してたら腕の魂が死んだ。
最近、「責任」についての哲学的な考察をした本が出版されているが、――きちんとフォローしているわけではないが、結果的に人を支配するための言い訳になっているものも多い気がする。「責任」は、発言の総体、一挙手一投足にいたるまできわめて具体的な細部に宿っている。タスケテもらおうとする根性は「無責任」ではないとか、――確かにそういうことも言えるかも知れないが、上の細部に直面する「常識」の世界では、タスケテもらう人が責任を負わなくてもよいことにはならない。「責任」は、溜まった鬱憤のうえにでてくるようなものであって、その言葉が出てきた時点でいろんなことは決着がついているのである。戦争は言うまでもない。