嫌だ。あんな大きな蛾って見たことがない……脂ぎって、ドキドキしていた」
と、気味悪そうに眉をひそめた。その夜半、身近になにか人の気配がするので、ハッとして頭をあげて見ると、女が、大きな眼をして青木の枕元に坐っていた。
「……あたしの郷里では、人が死ぬとお洗骨ということをするン。あッさりと埋めといて、早く骨になるのを待つの。……埋めるとすぐ銀蠅が来て、それから蝶や蛾が来て、それが行ってしまうとこんどは甲虫がやってくるン」
二、三日、はげしい野分が吹きつづけ、庭の菊はみな倒れてしまった。落栗が雨戸にあたる音で、夜ふけにたびたび眼をさまされた。
ある夜、青木は厠に立ち、その帰りに雨戸を開けると、その隙間から大きな甲虫が飛び込んで来て、バサリと畳の上に落ちた。
――久生十蘭「昆虫図」
宇宙に行っても、宇宙船に自分を好きになる美少女がいるとは限らないが、蝗虫ならそこらじゅうにいる。
そこらじゅうにいるものと、滅多にいないもののあいだに我々の世界はあるが、ときどき大谷翔平みたいな人間が現れて、我々における聖なるものへの存在を想起させる。滅多にいないのではなく、我々だってある程度は大谷に似ているというわけである。果たしてそうであろうか。
なぜなら、大谷ってテレビで観ると一〇センチぐらいなのである。戦争とか爆撃とかの映像にも言えることであり、2メートルが10センチに見えているということがどういうことを意味しているのか、よっぽどのアホでない限りわかるわけである。しかし分かるだけだ。実感がないのである。とすると逆に、なぜ大谷はわれわれと一緒の人間だとおもえるのかが問題だ。
で、たぶんそれが言語や数の力なのである。我々は大谷を説明しているうちに対象が人間であると思えるのだ。特に、説明が三箇所に渡っている場合に、我々は説明すら空間として認識しているかもしれない。中山弘明氏の本(『〈学問史〉としての近代文学研究』)に、むかし指導教官に三人研究してなんぼだといわれて絶望したと書いてあった。たしかに経験的にも、そんなかんじはあるのだ。認識に於ける三冠王。こういうタイプこそ4番であって、一芸タイプと全部出来るタイプは4番ではない。というかんじで、三点からの認識が何か意味ありげに、研究者にもいえることのようなきがしてくる。
そうえいば、「一即多」みたいなコンセプトがただたんに好きな人は、凡人になりがちなのかもしれない。西田幾多郎が、それを反復したわけは、「一即多」自体が時間的に反復され増殖してゆかないとそれが実現しないことを知っていたからである。案外それは群衆的なのだ。
そういえば、「となりのトトロ」も三人の話である。二人の娘と父、二人の娘と母、――にくわえて、トトロや猫バスと女子二人である。つまり、小太った兄貴が妹二人を甘やかす話でもあって、「火垂るの墓」の兄貴が妹を見捨てる余地があるのにたいして、妹二人いると彼らをどこかに連れて行ったりしなきゃならんのだ。わたくしも同じような状況があったが、猫とかトトロとちがって妹たち以上に動きがわるかったのでそうならなかっただけだ。
トトロの話は一種の寓話ということになる。寓話は子供に向けられることが多いが、我々がものを改めて明視するためにも用いられる。「トトロ」とか「エヴァソゲリオン」とか明らかに子供向けなのに、そういうときに我々の目が冴える。もしかしたら、今残っている「源氏物語」なんかも子供向けで、もっと大人の源氏物語が他にあったりしたのかもしれない。
それにしても、子供自体はそれほどでもない存在だ。子供に限らない。女のアイドルや俳優さんて、すごく眠そうな写真多い。理由は性的な理由であるが――、わたくしはもっとちゃんと起きてる人が好きだ。