親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
春秋左氏伝には、呉の季札の譲国の話が出てくる。あまりに優秀な、しかし末っ子であった季札に次の君子になってほしい兄弟たちがいろいろはかったが、本人は、曹の宣公の話を持ち出して、辞退し、農民になってしまった。思うに、上の坊っちゃんは、その素質がどういうものなのかもわからんくせに「親譲り」なのがいかん。当の親は自分を自覚してタノか、女形になりたいみたいな兄をかわいがっていたのだ。
思うに、坊っちゃんの親に対する執着はけっこうすごく、意図的に模倣しようと思っていたのではないだろうか。たぶん、坊っちゃんはこんな体たらくだから、文学に対する関心がないのだ。試験勉強を暗記そのものとしたい連中などそのたぐいである。確かに思ったよりも暗記なのだが、暗記だけではない。四書五経の素読だって、そのまま覚えなきゃ切腹だみたいなものではなかったはずである。こういう問題の非常に困難な案配を知らない教育者は何をやってもだめである。
たとえば、作文教育は半端にやると文章をかくことがそもそもものすごく難しいということが忘れられるものである。文字文化は呪なのであって、取り扱い危険物である。こんなことは昔の人だって知ってたがいまはコミュニケーションの手段だと思われている。しかしコミュニケーションはむしろ喋ったほうがよいのだ。だいたい、メールのやりとりは難しいからしゃべったほうがよいというのは、一昔前まで共有されていたはずなのに、むしろメールや文書を出せみたいなかんじになっている。で、そもそもうまくいってないことさえわからなくなる。で、メールその他も、角が立たないように妙に格式張ったAIみたいなかんじになり、それを喋る際に模倣する逆転がおこりどこもかしこもAIに。