
「内裏わたりはなほいと気配異なりけり。里にては、いまは寝なましものを、さもいざとき履のしげさかな」
と色めかしく言ひゐたるを聞く
年暮れてわがよふけゆく風の音に心の中のすさまじきかな
とぞ独りごたれし
田山花袋の「蒲団」の末尾まであと一歩かとも思われる(違うか……)歌である。紫式部だってそれほど老いているわけではないのだが、我々はたいがい老いの内面というものをやや舐めており、これからはちゃんと老人のための文学が書かれる必要があるのではないかと思うのである。文学はやっぱり青春に寄りかかりすぎていたのである。
すさまじや雲を蹴て飛ぶいなづまの
空に鬼神やつどふらむ。
寄せ來るひゞき怖ろし鳴雷の
何を怒りて騷ぐらむ。
鳴雷は髑髏厭ふて哮るかや、
どくろとてあざけり玉ひそよ。
――北村透谷「髑髏舞」
よくわからんが、「すさまじさ」は、こんなに元気のよいものとは限らないとおもうのだ。力がないからからこそそれ自体の「すさまじさ」というものがある。これを認められなかった昭和の大衆たちは空元気というかロボットみたいな元気に惹かれるようになってしまった。これからはそうはいかない。病と老いがこの世の真ん中に居座るテーマである。
おそらく、コロナ騒ぎの後の世界は、われわれの生活環境や生活の作法が変化させられる。こんなときに黙ってはいないのが精神であり、文学の出番である。