
皇国は不滅の神州なり、小官突入に当たりては最後の一瞬まで「神州不滅」を絶叫しつゝ醜艦を木つ端微塵に砕かん、あゝ幸ひなるかな我、神州に生を享け、神州に生を捧ぐ、大和男子の本懐之に過ぐるものなし
神州不滅
天皇陛下萬歳
朝日新聞の昭和20年8月15日の記事の中には、特攻隊員の遺書もあった。いったい負けているのか勝ってるのか、どっちもでもいいかんじである。我々は敗戦を隠蔽していたのではない。勝っても負けてもどちらもでいいことを信じていたといったほうがよい。大本営的というのはその実こういう虚実不明のファクトにある。
これに比べると、昨今の朝日新聞はそこまでの緊張感がない。火曜日は、授業で「ゴジラと靖国神社」みたいな「天声人語」の記事を扱った。授業は、ゴジラ=靖国=加藤典洋大批判に展開。やはり日本のゴジラに関してはとっとこハム太郎と一緒に上映するみたいなことが重要だという結論にいたる。
「天声人語」に偏執狂的に注をつけてみるという演習なのであるが、別に反朝日をやろうとしているわけではない。「天声人語」という題名に美事に顕れている構造を問題にしているに過ぎない。以前も朝日新聞を模倣して記事を書いてみる演習をやったことがあるだが、朝日は注釈や突っ込みに向いているだけまだましなのかもしれない。だいたい世の中論外のものや触れるとやばそうなものほど何もいわれず、そこそこのものこそ炎上しているのである。
最近出来心で『日刊ゲンダイ』を買ってみたが、新聞というのは、明治の昔から、こんなかんじの三面記事的なものが一番勢いはあるものであって、朝日読売なんちゃらとなってくると本質的に大本営的になるわけである。