★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ぐるっと線でそれを囲めば

2025-03-08 23:36:59 | 思想


たゞスターリンの人となり、スターリンの正体は、知れるものなら知りたいと思ふ。不思議な存在に対する好奇心のせゐか。彼は千八百七十九年に生れた筈である。私と同じ年である筈だ。同じだけの人の世を見て来た筈である。

――正宗白鳥『読書雑記』


トランプが暴れているせいで、露西亜と米国が似た国になったという感慨があちこちから洩れているが、安部公房や三島由紀夫みたいな人たちがむかしそういうこと言ってたのは勿論、多くの人々が結構言っていた訳で、――冷戦というのはそういう似たもの同士が対立したさまを示すことで真の対立を隠蔽しているのというの、(新)左翼の常識だったのではないだろうか。だいたい、第二次世界大戦終わったとき、この二国はグルだった訳で、で、言ってみりゃずっとグルだったわけで、中国(むかしは生意気な大日本帝国)が台頭してくりゃそりゃ元のように組むわなとしかいいようがない。

ロシアは世界に冠たる社会主義革命をまがりなりにもでっちあげた国であり、アメリカも同じような意味で民主主義から始めた国というのをでっち上げた国である。この思想系の国はところどころ、その思想を振り回す場面でその人間性を発揮する。我が国が絵とか文学で発揮するのと対照的である。例えば、むかし「ビバリーヒルズ高校白書」に、主人公の一人である金髪美少年のブランドンが「決まりは破られるためにある。違いますか」とか主張して、飲酒し卒業が危なくなった女友達を卒業させようと、同級生みんなでデモる場面があった。これは、校長や教頭、親の世代の――かつての学生運動を想起させる形で、ノスタルジックにえがかえてもいたわけであるが、しかし、このブランドンのこういう発想て、法や習慣は破られるためにあると言わんばかりのトランプとあまりかわらない。だいたいこの白人のお金持ちの子ども達は、グループ内で相手をとっかえひっかえ交際したり、妙に卒業後に起業とかしたりしている点、やつらは青春の典型ではなく、新たな偉大なアメリカの典型だったのである。ものすごく長いドラマで、その「高校」とか「青春」的な雰囲気を長引かせることで、そのことを隠蔽していた。

彼らは自由や青春を謳歌しながら、典型を押しつけてくるので、その典型を受容することが自由を体現しているような錯覚に陥った我々は、他のものが不自由にみえてしまう。子どものおもちゃのカタログとか観るとわたくしでさえ、男の子はダンプカーとか消防車にか興味がないのかよとか、女の子はキッチンとお洋服かよと思う。これらはおそらく、アメリカの五〇年代だかに輸入された何かである(イメージ)。そういえば、男の子の恐竜趣味がオタクと理系に、女の子の恋愛趣味が文系に強く導かれすぎているのはどうみても遺憾であるからして、――小1の教科書には、ダンプカーの女子が恐竜と子どもを作ってその子どもが医者やりながら恋愛小説を書き、最後兵十にうたれる話を載せるべきだと思うのである。すなわち、我々は、定期的に兵十にうたれる如きアナイアレイションを体験して、ごんのジェンダーなど問題にならない現実を見出すべきであった。我々の現実は、どちらかというと、典型による二分法による破滅の回避ばかりを選択させられてしまう。

夜のNHKのニュースで、Xで私が退職した本当の理由というハッシュタグでさまざまなセクハラの被害者の声が可視化されたと言っていた。ずっと言われてきているが、この論法は危険であり、テレビの制作者がXの声を真実だと思って右往左往しているの単にばからしい。そもそもセクハラが深刻なのは中居の件以前からだし、Xの声というのは「声」じゃなくて出力された「文字」なのだ。言うまでもなく、Xに書かれている文字としてのお気持ち的精度じゃ物事の実態はつかめないのであって、そこをきちんと取材などで問題が何処にあるのか研究するのがメディアの役割だったはずだ。よく言われるようにSNSの何が問題かというと、書き込みが吹き出しの中にある科白になってて、人物の思ったことが書かれているように感じられる。我々の「声」と感じられる本当の姿は、吹き出しの如く括りはないし、それ自体独立もしていない。にもかかわらず、ぐるっとそれを線で囲めば、価値がないものにも価値があるように感じられる効果すらあるわけである。額縁効果である。学校でよく使用されている「ワークシート」の効果もそれで、白いノートよりも格段に何か書いてみようという気になるかわりに、修正もそれ以上の思考の発展ものぞめない。これがノートテイクに取って代わってしまったのが深刻である。学級崩壊や発達障害に対する有効な手段として開発されたことがオルタナティブとしてかんがられてゆくのは理由もあったが、そもそも教育のプロセスが、旧弊として批判される際にものすごく単純化されて理解され、もともとの困難さや難しさが忘却された面がある。

それは教育界だけに限ったことではない。執拗なリアリズムが欠けているところで、旧を乗り越えるみたいなことをすれば、じぶん以外を蔑視してしまうような、頭の悪い研究者みたいに現代社会全体がなってしまうであろう。ある種の蔑視によって論文の大量生産て実際可能なのである。よく読めばリアリズムの深度に問題があるのが明らかなのだが、それが判明するのには時間がかかるので、本人もそれが判明したときには時代が変わったとか言えばいいと思っている。

善悪の判断は二分法のかたちをとり、それでよろしいのだが、だからといって、それを現実の仕組みの説明に使用するから、排除しかやることがなくなるのだ。そういうことが大変幼稚であることを告発するところから近代文学は出発している。むろん、彼らの認識にも二分が入り込み作品も混沌とする――プロレタリア文学なんかはその表れである――わけであるが、混沌すら経験しない連中よりはかなりましである。


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