★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

階級闘争の時代――貞子3Dと袴を着けたシェーンベルク

2025-01-26 01:16:03 | 思想


 在來一切の社會の歴史は、階級鬪爭の歴史である。
 自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、ギルド(同業組合)の親方と徒弟職人、一言にすれば壓伏者と被壓伏者とが、古來常に相對立して、或ひは公然の、或ひは隱然の鬪爭を繼續してゐた。そしてその鬪爭はいつでも、社會全體の革命的改造に終るか、或ひは交戰せる兩階級の共仆れに終るのであつた。
 上古の諸時代にあつては、殆んど到る處に、社會を種々な等級に分けた複雜な排列法、社會的地位の種々雜多な區分が行はれてゐるのを見る。すなはちローマの古代には、貴族、騎士、平民、奴隷があり、中世には、領主、家來、親方、徒弟、農奴がある。そしてなほその諸階級の殆んどすべてに、またそれぞれの小區分がある。
 封建社會の滅亡から發生した近世のブルジョア社會も、階級對立を除去してはゐない。ただ新しい階級をつくり、新しい壓伏條件をつくり、新しい鬪爭形式をつくつて、昔のに代へただけである。
 けれども、我々の時代、すなはちブルジョアの時代は、この階級對立を單純化したといふ特徴をもつてゐる。全社會は次第々々に、相敵視する二大陣營、直接相互に對立する二大階級に分裂しつつある。すなはちブルジョアとプロレタリヤである。


――「共産党宣言」(堺・幸徳訳)


いまの事態を、米帝がРоссійская Имперія化して、ついに全世界的に「帝国主義戦争をせんでも社会主義革命」の段階に到達したとレーニンなら喜ぶであろうか?ともかく、日本での安倍や麻生に対する相反する運動をみてみても、そこにネットや学歴やらが絡んだ階級闘争だったのはあきらかであって、トランプ現象の場合もそうであるにちがいない。叛乱を起こすのは、感情的な意味での奴隷たちであって、正義を持つものとは限らない。マルクスがいうように、ブルジョアジー的な、ようするに、文化的空間に閉じ込められた人間が多い空間では、対立は、言葉の性質に随って、二大対立物の激突となる。

いま、医学界とか教育界は、ブルジョア的心情の元に奴隷と化しているから、従業員たちは基本的に叛乱モードである。そういえば、安部公房や手塚治虫が医学出身ということで、医学業界が正気を保っていた側面は、ユープケッチャの一歩ぐらいは存在しているに違いないし、漱石が学校の先生であったことが、先生たちを支えていたところがあるのだ。それがなくなったら、ただの闘争集団である。

マルクスの共産主義者宣言というの、われわれはずっと階級闘争ばっかしてきているんだとは言っていても、正義は勝つとは言ってねえと思うんだが、学生に読ませると、いまは情報通信がすごいから正義の階級闘争は起きないとか、情報通信の発達に拒否反応のある旧世代に階級闘争を仕掛けてくる。そういえば、「リング」の続編は様々につくられていて、このまえ、石原さとみさんがでている「貞子3D」をみたけど、貞子はざらざらのビデオテープじゃなくて、パソコンやスマホから3Dででる、むしろ鮮明にでてくると主張していて、まさに、スマホ世代の階級闘争をみたね。

そういえば、東浩紀氏の『動物化とポストモダン』がでたときに、なるほど、ポストモダンな知識人に対する動物みたいなオタクさんたちの階級闘争が始まったと言っているんだな、と思ったが、怒られそうなのでだまっていた。東氏自身が、その闘争をみずからに感じており、案の定、どちら側からも批判されることになってしまった。わたくしはずるかったから問題を超克するんだという態度だったが、それこそ、「近代の超克」みたいな逃避に他ならなかった。

さきほど、石桁真礼生の「卒塔婆小町」(三島由紀夫)が「クラシックの迷宮」でやってたが、はたして、三島がこういうものを望んでいたのかはわからない。たぶん違ったような気がする。石桁真礼生の交響曲って、中学生だかのむかし聞いたんだが、袴をつけたシェーンベルクみたいだなとおもった。


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