
ひそかに推測してみると、人間の生存の根源的不安を課題にした『不安の概念』におけるキェルケゴールと、すべての不安神経症の根源を〈母胎〉から離れることへの不安〉 に還元したフロイトは、どちらもヘーゲルのこういった考察からたくさん負っているような気がする。だがへーゲルのこういう考察は、自己幻想の内部構造に立ち入ろうとするとき問題になるだけだ。ここでヘーゲルの考察から拾いあげるものがあるとすれば 〈生誕〉の時期での自己幻想の共同幻想にたいする関係の原質が、胎生時の〈母〉と〈子〉の関係に還元されるため、すくなくとも生誕の瞬間の共同幻想は〈母〉という存在に象徴されることである。
人間の〈生誕〉にあずかる共同幻想が 〈死〉にあずかる共同幻想と本質的にちがっているのは、前者が村落の共同幻想と〈家〉での男女のあいだの〈性〉を基盤にした対幻想の共同性の両極のあいだで、移行する構造をもつことである。そしておそらくは、これだけが人間の〈生誕〉と〈死〉を区別している本質的な差異であり、それ以外のちがいはみんな相対的なものにすぎない。
このことは未開人の〈死〉と〈復活〉 の概念が、ほとんど等質に見做されていることからもわかる。かれらにとっては〈受胎〉、〈生誕〉、〈成年〉、〈婚姻〉、〈死〉は繰返される〈死〉と〈復活〉の交替であった。個体が生理的にはじめに 〈生誕〉し、生理的におわりに 〈死〉をむかえることは、〈生誕〉以前の世界と〈死〉以後の世界にたいしてはっきりした境界がなかった。『古事記』には〈死〉と〈生誕〉が、それほどべつの概念でなかったことを暗示する説話が語られている。
――「祭儀論」(『共同幻想論』)
『教行信証』読んでないから急ぎ読まねばと思うが、あまり時間がない。しかし親鸞とは文学をやるものにとって、交響曲第9番の如きものであって、あつかったらもう最後みたいなところがあるからよいのかもしれない。――いや、よくおもいだしてみれば案外生きのびるやつもいるようである。野間宏なんかたしかに生きのびた。もっとも、彼なんかはもうデビュー当時の「暗い絵」とか「顔の中の赤い月」なんかでももう生きながら死んでいると言えば言えるので信用できない。デビュー前の野間宏はイザナミのようなものであって、そこから逃げてきたイザナギが戦後の小説家としての彼であるのではなかろうか。
生も死もないんだ機械があるんだ(違うか)みたいなことを言っているドゥルーズなんかは『アンチ・オイディプス』で、次のように述べている。ちなみに、大学の私は、この革命的な書物において、この辺りで挫折した。
〈器官機械〉が〈源泉機械〉につながれる。ある機械は流れを発生させ、別の機械は流れを切断する。乳房はミルクを生産する機械であり、口はこの機械に連結される機械である。拒食症の口は、食べる機械、肛門機械、話す機械、呼吸する機械(喘息の発作)の間でためらっている。 こんなふうにひとはみんなちょっとした大工仕事をしては、それぞれに自分の小さな機械を組み立てているのだ。〈エネルギー機械〉に対して、〈器官機械〉があり、常に流れと切断がある。シュレーバー控訴院長は、尻の中に太陽光線をきらめかせる。これは太陽肛門である。
――宇野邦一訳
思うに、我々の身体とは、我々でないものまで機械として作動させることがある。そこにはスイッチなどがあり、肩書きなんかをもらうと、自分の身体を棄て組織でうんこを漏らそうとする。たしかにこれにくらべると、太陽肛門なんかはストイックさで清く正しいような気がしてくるほどだ。肩書きのスイッチが入ると、「誰にでも」命令を下せると思っているレベルの奴がなんでこんなにおおいのか、一見わけわからない。たとえば下部組織の人間だってただちにお前の部下ではないことすら忘れ、政治と官僚の関係も部署の違いも忘れる。しかし、違うのである。自分の脳で発した素晴らしいアイデアを、組織の肛門から排出しているだけなのだ。このとき、組織は死ぬが彼の脳だけは生きのびるようにみえる。しかしやはり組織は組織であって、食道と肛門だけでできているのではない。ちゃんと筋肉とか肺とかもある。
組織のなかにいると、強者と弱者の対立と言うより、肩書きで興奮した強者が、組織を支える動きが可能なある種の強者を奴隷としてつかうために、何もしない多数を奴隷でない右往左往するだけの群れとして放置しながら甘やかす場合さえあるのがわかる。外部から観ると、あたかも上の興奮した輩が勇敢な抵抗者に見えることがある。だから外から見ているだけではだめなのである。確かに、いろいろ外から見えることもあるだろうが。外からは、すべての動きがゆっくり自分勝手に総花的に見える。だから、もっと単一の食道と肛門しかないような美しい花を夢みる。この外の人とはだれかに似ている。先ほどの興奮した脳の人に似ているのである。