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かくて、あて参り給ひて、また人あるものとも知り給はず、うちはへ参上り給ふ。まれに、人の宿直の夜は、夜更くるまで、この御局にのみおはしまして、御遊びなどし給ふ。
かくて、二日ばかりありて、参上り給へるつとめて、春宮、
めづらしき君に逢ふ夜は春霞天の岩戸を立ちも込めなむ
とのたまふ。あて宮、寝給へるやうにて、ものも聞こえ給はず。
かかるほどに、妊じ給ひぬ。
この部分の直前には、天皇の后のなかでも意地の悪い人が居てみたいなことが書いてある。その「歳老い、かたちも憎し、時なし。心のさがなきこと、二つなし」というたたみかける書き方にたいし、春霞の力で天岩戸を隠しいつまでも夜が明けなければよいのに、という歌を寝たふりをして聞き流し、「かかるほどに」妊娠してしまうあて宮の描き方が人間離れしている。
どちらかというと、あて宮の妊娠が自然であり、后たちの悪さの方は人間的である。しかし、我々が愛でるのは、自然の方である。例えば、我々の使っているコンピュターは自然の方である。これに対して、人間たちはその自然に悪口を書き込むことで対抗しているのかもしれない。
コンピュータの検索機械がなかったころ、われわれ人間の方に、なんとなく言葉やらせりふの一部を頁をめくりながら探す機能があった。何年も注釈の訓練をしているうちになんとなくそこら辺にあるみたいな勘もそなわってくる。わたしもそれが発達してたのは院の前半頃だったきがする。最近、国会図書館のデジタルコレクションの検索機能が驚異的な性能アップを起こした。これで研究の世界がまた違ったものになることは明らかであるが、我々は人間であり、それほどやることが変わるかどうかは分からない。前述の人間の検索能力の場合は、速読とは違ってもっと速いなぞり方なんだけど、なんとなく文章も読んで探している感じがあったと思う。結局、検索自体を機械にやらせても、そのあとの文脈との関係を考える方は同じような時間がかかるのだし、結局、大蔵経の山を目の前にして頁をめくってた時代にあるいみ戻るんじゃねえかと思われる。というか、べつにパソコンによってやることが変わっていたわけではない。単語がはやく手元に集まるようになっただけだった。だいたい単語の同一性にもとづいて用例がたくさん出てきちゃったほうが研究は大変だというのは、わりと常識的なはなしである。
「百万円を奪った犯人は、あなたの心のほかに居ります」
芳夫は愕然とした。無言のまま眼を輝やかして一膝進めたが、名探偵は依然として微笑を続けた。
「それは一人の若い女性です。しかも非常な美人で、学識といい、心操といい、実に申分のない処女です」
芳夫は思わず叫んだ。
「それはどこに居りますか」
「それを探し出し得る人は世界中にあなた一人です」
芳夫は面喰った。独言のように云った。
「いったい……それは……どういうわけで……」
名探偵は厳粛な口調で説明した。
――夢野久作「夫人探索」