――年齢。
――十九です。やくどしです。女、このとしには必ず何かあるようです。不思議のことに思われます。
――小柄だね?
――ええ、でもマネキン嬢にもなれるのです。
――というと?
――全部が一まわり小さいので、写真ひきのばせば、ほとんど完璧の調和を表現し得るでしょう。両脚がしなやかに伸びて草花の茎のようで、皮膚が、ほどよく冷い。
――どうかね。
――誇張じゃないんです。私、あのひとに関しては、どうしても嘘をつけない。
――あんまり、ひどくだましたからだ。
――太宰治「虚構の春」
人形やマネキンには現在への不信がある。もっといえば固有名詞への不信がある。
氏名が忘れられ、三冠王とか怪物とかゴジラとか二刀流という言葉だけが残った未来では、――三度王様になった人が引退する頃腕が丈夫な怪物があらわれ、北陸にあらわれたゴジラが米国に渡ったし、怪物もいつのまにかアメリカに渡った。少し後に長身の二頭龍がアメリカで暴れているころ、元アメリカ王が殺されかけ――みたいな神話になったりするのであろうか。
しかしやはり神話さえも固有名と大いに関係あるとおもうのである。
無名の人々は、歴史ではなく人生に夢を見るものである。青春などはすぐ去ったくせに夢として回帰する。しかし、最近はそう簡単に回帰しなくなってきている。そもそも青春時代がどこかしら価値が高く見えていたのは、――その本人がいい歳になったときにはその惨めな姿をながめていた親は既になく、若者達は彼ら年上たちをはじめから年上なだめなやつだと思っているなかの、老いつつある本人の孤立のなかでの思い出だったからかもしれない。で、いまは親も長生きで子どもたちからも友達扱いされた結果、いっこうに青春時代が価値ある「青春時代」に昇天しない。
戦後は、青春(2)みたいな風に考えられたこともあった。しかしそれはどちらかというと、その前の「抵抗の時代」を評価することであったと思う。雪解けを青春と言いたい気分はわかる。そういえば、中学高校にそんな側面があるからかもしれない。しかしながら、小学校とおなじように、いま、我慢の時代だ、ながく抵抗を続けるしかないんだと思っている人も多く居たと思う。が、小学校と違って、抵抗の時代を長く我々が記憶できているとは限らず、しらないうちに、まずい状況に改革されてしまうのも世の常なのである。