人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自明なこと

2015-06-11 17:11:06 | スピリチュアル
さて何を書いたらいいんだろ?
色々思考をめぐらして考えてるところです。今の私は…
考えている私が居るんです。自明なことですね…物心ついて一応日本と呼ばれる国に生まれ、ケッタイな性格をした自分というものが認識され…
喜び、苦しみ交々の人生模様が展開される…
それについていいとか悪いとか、判断など出来ません…そのように生きるべく仕組まれているのです。
家庭や社会からそのように仕向けられてると言っても、そうです。自明ですね…
しかし中には変わった事考える人も出て来ます。
”果たしてこのままでいいんだろうか?本当は人生の裏には重要な真実が隠されているんじゃないだろうか?”
このように感じた人にはひょっとして、その扉が開かれるかもわかりません。
そう感じたことの無い人に、そういう契機が有るのかどうかは私にはわかりません。
人類的規模で朝目が覚めたら、自分が、世界が変わってた…なんてことも無いとは言い切れないですから…
そうでない場合、全くそうしたことに意識が向かない人には、そうした契機は生まれにくいですね。
人間は皆意識が向いたとおりに生きているとも言えます。
”腹が減った、食べ物が欲しい”と意識しない人は多分餓死しちゃうであろうように…
(別の例で恐ろしいことを言いますと、例えば核兵器は使う事を意識して作られている筈です!)
逆に言うと、この意識がそっちに行くという事は絶大な意味を持っていると言えます。
修行や信仰といったものの意味もこの事と結びついているのでしょう。
でも私はそれ以前の発心とか菩提心というものと関連した、そもそもの意識づけほど重要なものは無いと思っています。
それ無しに修行や信仰や探究などに何の意味が有るでしょうか? 自明なことです!
ところがこの意識というものは、普通我々は考えてばかりで”意識されていません”
普通、心とか精神という概念で一括されてしまっていて、思考と純粋意識との境界というのは微妙なものに感じられるかもわかりません。
でもいったんそこが超えられてしまったら、思考機能は及ばなくなる…こんな自明なことは無いと感じられます。
そしてその領域で大本の命とつながっていることが示されます。
(本当は既につながっているので、悟るも悟らないも無いとも言えるのですが、”だから何もしなくていいんだ”と言えるかどうかは私には微妙なことです)
しかし、普通に考えて思考ばかりが覆われている限界内で、そこを超えようとするには無理があります。
そこで正にその限界点というものを知らないとなりません。そして、そこからその壁を突破できるのです。
それにはどうしても、そこを超えた働きに委ねないとなりません。その働きを仮に恩寵と呼んでいます。
恩寵は何も私が”上よりの力”と呼んでいる超自然的な働きばかりではありません。(狭義にはそうかもわかりませんが)
何か人を発心に駆り立てるもの…修行に駆り立てるもの…など、人生のあらゆる契機に忍び込んでいるものです。
どうしようもなく、こういうものに駆り立てられている人こそは寵児と呼ばれる人です。
ああ、もしこの恩寵というものが無かったとしたら…人生も、世界も、宇宙も、悟りも、覚醒も、ニアヴァーナも…全ては夢! 絵空事! 誰が死のうが、世界が吹っ飛んじまおうが、どうでもいい…
自明なことじゃありませんか!
でも夢だろうと、幻想だろうと、何でこんなことを書いているんだ私は…
何という恩寵なんでしょう!
自明なことじゃありませんか…











コメント
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