毎年今頃になると、おなじみになるのは観測始まって以来レコード破りという大雨、豪雨の報道です。
これをもたらしているものの多くは、不安定な大気により、発生するという積乱雲によるとのことです。
地震といい、火山噴火といい、集中豪雨といい、我々の生活を脅かすものものには、どうも私の内にある心象を想起させるものが多く、複雑な思いに駆られるのですが…
私は物心ついた時から今でも、夏の夕暮れ時などに異様なまでの景観をもたらす、あの入道雲を見る度にある種の驚嘆、昂揚感といったものを覚えます。
不思議なのは、朝全くその兆しが無かったものが、午後突如その偉観を表すことです。
そして又、一体、あの巨大な化け物はどうなったら出来るのだろう…あのすさまじい雷、嵐は何によってもたらされるのだろう…
入道雲こそは私にとって脅威、神秘の象徴なのです。
シェキナー。これはユダヤ教で神の臨在を表す言葉です。
諸説が有るようですが、雲が立ち込めてくる様を、この言い表し得ないものの顕現として象徴しているそうです。
実に言い得て妙です。そこでは神の遍在と共に内在という意味合いもあるとのことです。
私が受ける感じとして、どっからかモヤモヤーッと揺らぎが生じ、何か時間と空間の境目、自分の外側、内側を隔てる壁がぼやけ始める…そして下降、上昇の気流(これは上から来る、中から出てくるものの喩えです)を通し、我々の命そのものとして生きて働く力の現れ…といったものです。
とにかく私は信じるべき特別な信条、ドグマなど持ち合わせていませんので、神は超越的なものなのか、内在しているものなのか、人格的なものなのか、非人格的なものなのか、多神なのか、一神なのか…如何なる断定的決めつけ事には応じかねます!
ただ神は雲のように変幻自在であり、我々の意識の有り様に応じて示現して下さるものと理解しています。
そして示されたことはただ受け入れるしかありません。
人の手になる宗教的信条は二義以下のものとして却下せざるを得ません。
臨在と言う…ここに恩寵、愛というものが否応なく感じ取れるではありませんか?
それは抽象的な言葉、文字では無い、具体的な”このものと分かち難くある”という実感です。
それは、我々の側で神を求める、近づく、理解しようとする必要は無いという事です。
だがこの意味は軽く考えられるべきものではありません。
一度でも抑えがたく神を求めたり、人生の苦難を味わったことの無い人間には、おそらく何も心には響いてこないでしょう…
あくなき希求の、挫折の、苦難の涙…それらは覚えられているのです。
それは我々の知らないところで、別の生き物のように成長しているサムシングの養分となり、花開く時節を待っているのです。
モクモクと地表から天高く立ち上る積乱雲は、時に竜巻を逆に地表に降ろします。
それはあたかも天と地を結ぶ柱のようです。
シェキナー。これこそは神と我々との架け橋ではありませんか?
求め、得る、知る…人間的なあまりに人間的な次元は終わり、求めようとしたもの、得ようとしたもの、知ろうとしたものそれ自体が、我々と共にある…真人、神人の次元が今開かんとしているようです。
唯一の神が存在すると言う、すると対立するかのように様々な神が唱えられて来ます。
何が正しい神なのか誰にも決められません!
空と言う、無と言う、何にも無いのですか…誰が決めたのですか?
有るとか無いとか…我々の思議から”こうである!”などとは言えません
有無を超えたもの、顕現してくるもの…シェキナーがあるのです!
雲間から呼び声がする…
大地からも呼び声が発せられる…
そして…シェキナーが立ち込める…。
これをもたらしているものの多くは、不安定な大気により、発生するという積乱雲によるとのことです。
地震といい、火山噴火といい、集中豪雨といい、我々の生活を脅かすものものには、どうも私の内にある心象を想起させるものが多く、複雑な思いに駆られるのですが…
私は物心ついた時から今でも、夏の夕暮れ時などに異様なまでの景観をもたらす、あの入道雲を見る度にある種の驚嘆、昂揚感といったものを覚えます。
不思議なのは、朝全くその兆しが無かったものが、午後突如その偉観を表すことです。
そして又、一体、あの巨大な化け物はどうなったら出来るのだろう…あのすさまじい雷、嵐は何によってもたらされるのだろう…
入道雲こそは私にとって脅威、神秘の象徴なのです。
シェキナー。これはユダヤ教で神の臨在を表す言葉です。
諸説が有るようですが、雲が立ち込めてくる様を、この言い表し得ないものの顕現として象徴しているそうです。
実に言い得て妙です。そこでは神の遍在と共に内在という意味合いもあるとのことです。
私が受ける感じとして、どっからかモヤモヤーッと揺らぎが生じ、何か時間と空間の境目、自分の外側、内側を隔てる壁がぼやけ始める…そして下降、上昇の気流(これは上から来る、中から出てくるものの喩えです)を通し、我々の命そのものとして生きて働く力の現れ…といったものです。
とにかく私は信じるべき特別な信条、ドグマなど持ち合わせていませんので、神は超越的なものなのか、内在しているものなのか、人格的なものなのか、非人格的なものなのか、多神なのか、一神なのか…如何なる断定的決めつけ事には応じかねます!
ただ神は雲のように変幻自在であり、我々の意識の有り様に応じて示現して下さるものと理解しています。
そして示されたことはただ受け入れるしかありません。
人の手になる宗教的信条は二義以下のものとして却下せざるを得ません。
臨在と言う…ここに恩寵、愛というものが否応なく感じ取れるではありませんか?
それは抽象的な言葉、文字では無い、具体的な”このものと分かち難くある”という実感です。
それは、我々の側で神を求める、近づく、理解しようとする必要は無いという事です。
だがこの意味は軽く考えられるべきものではありません。
一度でも抑えがたく神を求めたり、人生の苦難を味わったことの無い人間には、おそらく何も心には響いてこないでしょう…
あくなき希求の、挫折の、苦難の涙…それらは覚えられているのです。
それは我々の知らないところで、別の生き物のように成長しているサムシングの養分となり、花開く時節を待っているのです。
モクモクと地表から天高く立ち上る積乱雲は、時に竜巻を逆に地表に降ろします。
それはあたかも天と地を結ぶ柱のようです。
シェキナー。これこそは神と我々との架け橋ではありませんか?
求め、得る、知る…人間的なあまりに人間的な次元は終わり、求めようとしたもの、得ようとしたもの、知ろうとしたものそれ自体が、我々と共にある…真人、神人の次元が今開かんとしているようです。
唯一の神が存在すると言う、すると対立するかのように様々な神が唱えられて来ます。
何が正しい神なのか誰にも決められません!
空と言う、無と言う、何にも無いのですか…誰が決めたのですか?
有るとか無いとか…我々の思議から”こうである!”などとは言えません
有無を超えたもの、顕現してくるもの…シェキナーがあるのです!
雲間から呼び声がする…
大地からも呼び声が発せられる…
そして…シェキナーが立ち込める…。