人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神と媒体

2015-06-06 21:49:37 | 
自分とは別に神という超越的存在がいるなど、原理主義的非二元論者などにしたら到底受け入れられないことでしょうね。
ましてその神とか霊的存在が人に懸って何かしゃべり出すとか、自動書記などで教示を垂れるなど、ありえない話と映るんじゃないでしょうか?
私は昔から、その手のものが大好きですけど…
ただ、所謂宗教信者のように神が言われたままのこと、書かれたままのことをそのまま信じてしまうかどうかは…微妙です。
だからと言って興味本位に、面白半分にそれらを楽しんでいる訳でも無く、それなりに敬意を持って接しているつもりです。
しかし、何であれ”信じなさい!”と強要を迫るのは、絶対神の言葉だろうとアウトです!
この点、一時期チャネリングで一世を風靡した宇宙存在バシャールのように「私の語ることを無理に信じなくてもいいです!」というスタンスは助かります。(あのエンティティは、実に気配りが行き届いてる感じです。)
私には何時の頃からか、たとえ神の言葉、至高なる聖者の言葉だろうと、意識の内にか言葉として現れたものはそのまま信じること、受け入れることは出来ない、という回路が作られているようなのです。
どうも”こりゃあ、素晴らしい! と感激して”信じちゃおう”とすると、何かブロックされてる感じでそれ以上思考機能が働かないのです。
乱暴な言い方ですが、表された言葉が真実、真理だろうと、ウソだろうとどっちでもいい…
そこで未来の預言、誰かの過去世などが語られようとどっちでもいいのです。
間違っても、ブログなどを通じて、そうした情報の未消化のままのタレ流しなどしません!
じゃ、”やっぱり軽く見てんだろ! 有難き神の言葉、聖者の言葉を何だと思っているのか!”と言われそうですが、ではどのように楽しんでいるかと言ったら、単純に”味わっている”ということになりそうです。
勿論、その”み言葉”というものには自分にとって合うもの、合わないものがあるのは、人それぞれの気線によります。
ここで何を語っているかと言うと…その現れた形としての”言葉”についての対し方なのです。
言葉というのは媒体である…それ自体が依代(よりしろ)~見えないものを見えるものを通して象徴させるもの~である、ということなのです。
発信源は絶対界からなのかどうかは分かりませんが、形として示されているものは相対化したものなのです。
そして”この言葉は実に味わい深い…神棚にあげなくちゃ”という促しは思考の臨界点を超えたところから来ます。
この”味”というのはその領域に充満しています!
私はまたちょい、ちょい神社仏閣で神仏に礼拝したりしますが、その場合神仏を対象にしている訳ですが、それも見えない神仏を依代と見立てているのです。
最初から象徴として、対象として観るのと、意識的な働きで対象されてしまう事とはまるっきり意味合いが違います。
対象化とは見えないものが、見えるものにスリ変わること、相対的なものが、まるで絶対的なものとして幅を利かせてしまう、ということで本末転倒です。
これは多くの宗教に見られる通りで、その事が救いようのない数々の相克を作り出しているのは御存知の通りです。
神的なものは我々の意識の有り様に応じて様々な顕れをする、という理解が広まれば…と感じます。
また”神なんて実体がよく分からないのに、容易に権威と結びつくような言葉使わなきゃいいんだ”とも思います。
それでも私はしばしば神という表現を使いたい…
神仏なんて存在してなくてホントは純粋意識しかないのかも知れません。
しかし、いくら純粋意識とか空とか無とか言ったって肝心なものは伝わってくる気がしません。
これは言葉から受ける印象について言っているんですけども…
その言葉には妙なる親子の関係にも似た暖かい響きが感じられます。
神仏の存在…それは愛の媒体なのです…。





コメント
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