宗教、信仰というのはどんなものか…教団特有の教義が有って、それに信従する…人がよく思い浮かべられる文句は”信じれば救われる”というものでしょう。…
この典型的な例は、前にも書いたようにキリスト教に見ることが出来ます。
しかし私が生まれて初めて、キリスト教と呼べるような集会に接したものは、それとは全く違っていました。
というより、何回かあったそうした出会いの中でも、それはもっとも強烈なカルチャーショックを私にもたらしたものなのでした。色々な意味で…
その小池辰雄先生の集会のことは忘れることが出来ません。
その場に入った瞬間、言葉で言い表せない力、波動が立ち込めているのが認められました。
これはもう具体的な体感的なものであるので、抽象的にそれを信じる必要など無いのです!
その中にあって、”OOを信じます”などというのは全くバカみたいなことなのです!
これは実際にそういう経緯を見聞きしていますが、キリストのキの字も知らないという人、聖書など一度も読んだことの無いという人でも、その回心(聖霊のバプテスマ)を受けてしまうという事もあり得ることです。
(私自身殆ど何も知らなかったも同然で、その場は何事も無かったですが、そうなる可能性はあり得ました。)
私がそこで感じたものは、前記したような宗教らしいキリスト教に反し、凡そ宗教らしくないもの、非宗教的なものだという事です。
キリスト教という括りがもう当てはまらない…(で、小池先生はキリスト道と言ってました)
何故って、信仰も修行も儀式も必要が無いのですから…その恩寵を受けるという事は無条件的なものであったのです。
(とは言ってもその集会では無教会にのっとって?讃美歌を歌ったり、聖書の講話もあるのですが、そうしなきゃ恩寵に預かれないというものでは有りません。)
この聖霊を強調する集会は一般には所謂ペンテコステ派が知られていますが、教理的に偏る面が強くて私は関心が向きませんでした。
直接経験というものが打ち出されれば、そこで自然と内的な確信が生まれる訳で、抽象的な教理を信じるという在り方は、後退するのが普通ではないかと思われるのですが、逆に狂信的になる傾向が見受けられます。
本当に上よりの力を受け入れれば、そのような条件的なものに捉われるという事が無くなっていくのではないでしょうか?
それは神の前では”自分は何者でも無い””無条件的なものは元々与えられている”という事が知らされるであろうからです。
それは”自分は無いんだ”、とか”神と一つなんだ”とか懸命に理解しよう、信じようとすることとは根本的に違います。
限界ある自分を超えて雲の如く(シェキナー)臨在してくるものがあり、理解も信も上からやってくる、そのものによって”そうなっている”ものを受け入れるだけです。
福音とは、神学などで難しく語られたりしますが、ごくシンプルにそういうものなのじゃないですか?
そこで人間を超えた次元が開示される…しかしそれは人間自身による成長でなく、土壌自体の変容でしょう。
キリスト・イエスは約二千年前、”これが満ち溢れる世界が来たぞ!”と告げたのです。
この事はしかし、この現実世界がどっか別の次元に移行してしまう事でなく、このまんまで中から化体して来るという感じがします。
死んだようなサナギから蝶が顕れるようなイメージです。
これを促す聖霊の働きは全く宗派性を超越したものです。無教会という有限的境界を突破しようとする思潮からこのような動きが起こったのも必然と言えます。
又、カソリックには元々普遍性、公共性という意味合いがあるのだそうですが、これは正しく隠されていた普遍世界が公になるという事を暗示しているではありませんか?
キリスト教はもう死に絶えてしまうのかも分からない…否宗教自体も同じ運命にあるでしょう。
しかし原初の福音は教会の外で普遍性へと歩み出した…人々に目覚めを促しながら…
教会もドグマも廃れる…しかし福音は限りある境界を越えて、この現世に浸透し始めているのを感じます…。
この典型的な例は、前にも書いたようにキリスト教に見ることが出来ます。
しかし私が生まれて初めて、キリスト教と呼べるような集会に接したものは、それとは全く違っていました。
というより、何回かあったそうした出会いの中でも、それはもっとも強烈なカルチャーショックを私にもたらしたものなのでした。色々な意味で…
その小池辰雄先生の集会のことは忘れることが出来ません。
その場に入った瞬間、言葉で言い表せない力、波動が立ち込めているのが認められました。
これはもう具体的な体感的なものであるので、抽象的にそれを信じる必要など無いのです!
その中にあって、”OOを信じます”などというのは全くバカみたいなことなのです!
これは実際にそういう経緯を見聞きしていますが、キリストのキの字も知らないという人、聖書など一度も読んだことの無いという人でも、その回心(聖霊のバプテスマ)を受けてしまうという事もあり得ることです。
(私自身殆ど何も知らなかったも同然で、その場は何事も無かったですが、そうなる可能性はあり得ました。)
私がそこで感じたものは、前記したような宗教らしいキリスト教に反し、凡そ宗教らしくないもの、非宗教的なものだという事です。
キリスト教という括りがもう当てはまらない…(で、小池先生はキリスト道と言ってました)
何故って、信仰も修行も儀式も必要が無いのですから…その恩寵を受けるという事は無条件的なものであったのです。
(とは言ってもその集会では無教会にのっとって?讃美歌を歌ったり、聖書の講話もあるのですが、そうしなきゃ恩寵に預かれないというものでは有りません。)
この聖霊を強調する集会は一般には所謂ペンテコステ派が知られていますが、教理的に偏る面が強くて私は関心が向きませんでした。
直接経験というものが打ち出されれば、そこで自然と内的な確信が生まれる訳で、抽象的な教理を信じるという在り方は、後退するのが普通ではないかと思われるのですが、逆に狂信的になる傾向が見受けられます。
本当に上よりの力を受け入れれば、そのような条件的なものに捉われるという事が無くなっていくのではないでしょうか?
それは神の前では”自分は何者でも無い””無条件的なものは元々与えられている”という事が知らされるであろうからです。
それは”自分は無いんだ”、とか”神と一つなんだ”とか懸命に理解しよう、信じようとすることとは根本的に違います。
限界ある自分を超えて雲の如く(シェキナー)臨在してくるものがあり、理解も信も上からやってくる、そのものによって”そうなっている”ものを受け入れるだけです。
福音とは、神学などで難しく語られたりしますが、ごくシンプルにそういうものなのじゃないですか?
そこで人間を超えた次元が開示される…しかしそれは人間自身による成長でなく、土壌自体の変容でしょう。
キリスト・イエスは約二千年前、”これが満ち溢れる世界が来たぞ!”と告げたのです。
この事はしかし、この現実世界がどっか別の次元に移行してしまう事でなく、このまんまで中から化体して来るという感じがします。
死んだようなサナギから蝶が顕れるようなイメージです。
これを促す聖霊の働きは全く宗派性を超越したものです。無教会という有限的境界を突破しようとする思潮からこのような動きが起こったのも必然と言えます。
又、カソリックには元々普遍性、公共性という意味合いがあるのだそうですが、これは正しく隠されていた普遍世界が公になるという事を暗示しているではありませんか?
キリスト教はもう死に絶えてしまうのかも分からない…否宗教自体も同じ運命にあるでしょう。
しかし原初の福音は教会の外で普遍性へと歩み出した…人々に目覚めを促しながら…
教会もドグマも廃れる…しかし福音は限りある境界を越えて、この現世に浸透し始めているのを感じます…。