以前、私はカソリックのシスターにこんなことをぶつけてみた事が有ります。
「最近はカソリックでも禅をやってる人が多いようですね、それって正しいことなんですか?…カソリックでもカリスマ運動ってのがあるんですね? あの異言とかしゃべっているやつ…あれは異端なんでしょ?」
するとそのシスターが言うには「福音の受け取り方、宣教の在り方は自由な筈です。何が正しくて、何が間違っているかなど人が決められることじゃあないでしょう」
いやあ、当然のことながら全く、その通りでありすぎる事です。
私はこの当たり前な言葉を聞きたくてわざと吹っかけてみたくなったのです。(意地悪!)
しかし私は同じことをプロテスタントの信者にぶつけてみたいとは思いません。何かきな臭い空気が起こりそうですので…
ヨーロッパ中世の暗黒時代を例に揚げるまでも無く、カソリック教会は長年信教を権力で牛耳ってきたという歴史が有りました。
そして信教の自由の実現に立ち上がったのがプロテスタントであったのはご存じのとおりです。
ところが60年代中頃の第二バチカン公会議を契機に様相が変わってきました。
当たり前でなかった旧教会が、当たり前のことを言い出した…これは実に画期的な事と言わねばなりません。
開かれた教会というものを打ち出し始め、それまでは考えられなかったようなユダヤ教、回教などの他宗派との対話といった試みがなされていったのです。前記の禅との関わりなどもこの流れから見られるようになったのです。
そして、もっと開かれていなければならないはずの新教各派は、完全に置いてけぼりを食わされた形となり、旧態依然のまま取り残されたといった感が有ります。
相も変わらず自称、他称の正統派が幅を利かせていて、今でも「私の信仰の在り方は正しいんだろうか、間違っているんだろうか?」と神経症気味の信者たちは、自分の人生なのに牧師先生の正統的判断に委ね続けている始末です。それが正しいかどうかは分かりませんが、(聖書に照らそうがどうしようが)内なる絶対者にたづねない限り、どこまでも”ああでもない、こうでもない”と、堂々巡りの繰り返しでしょう…
”イエスは神の子””三位一体””十字架の贖罪”これらの信仰のハードルをクリアーしなければ信者になれないのだと言う…
”僕には信じられなーい!”だったら止めりゃあいいだけでしょ? 実際にこのような人に会ったことありますが、それでも信者になりたいと言う、その心理が私には理解出来ません。
でもこのようなことは、全ての”信じる宗教”について言えるのではないでしょうか?
つまり、キリスト教(特に今は新教)に典型的な宗教の雛形を見ることが出来るかと思います。
宗教の名の下での戦争、弾圧…これらの殆どにキリスト教自体が関わって来たし、他宗教によるものでもキリスト教がらみの遠因が求められるものが多いです。
しかし、一体どうして教会はイエス時代からは全く似ても似つかないように変質してしまったのでしょうか?
私が思うにキリスト教は初期の頃から、現実世界と関わって来たからだと思います。そこからしばしば社会運動が生まれたようにです。(共産主義も、ナチズムも、そして我が国の天O絶対の国家主義も基教がらみの遠因で出現したようなものです)
この事はしかし霊性の希薄化を招く要因となってしまったようです。
そして今やネオ・ノンデュアリティなるものが台頭して来て”あんたたちの時代はもう終わった!”と通告をしているかのようです。
それが摂理であれば仕方のないことでしょう。
しかし信徒たちはどうして現世の諸々の魔的力にさらされながらも俗の中に入っていたのでしょう?大きなツケを残して…
イエスの福音は”神の国が来た!”で始まりましたが、神の国とはこの現実世界とは別のどっかの高次元の世界なんでしょうか?
いいや、私にはここを置いて他には考えられません。
神の国とこの堕落し切った現世…これは一つになる?
キリスト教が別のものに生まれ変わった時?…。
「最近はカソリックでも禅をやってる人が多いようですね、それって正しいことなんですか?…カソリックでもカリスマ運動ってのがあるんですね? あの異言とかしゃべっているやつ…あれは異端なんでしょ?」
するとそのシスターが言うには「福音の受け取り方、宣教の在り方は自由な筈です。何が正しくて、何が間違っているかなど人が決められることじゃあないでしょう」
いやあ、当然のことながら全く、その通りでありすぎる事です。
私はこの当たり前な言葉を聞きたくてわざと吹っかけてみたくなったのです。(意地悪!)
しかし私は同じことをプロテスタントの信者にぶつけてみたいとは思いません。何かきな臭い空気が起こりそうですので…
ヨーロッパ中世の暗黒時代を例に揚げるまでも無く、カソリック教会は長年信教を権力で牛耳ってきたという歴史が有りました。
そして信教の自由の実現に立ち上がったのがプロテスタントであったのはご存じのとおりです。
ところが60年代中頃の第二バチカン公会議を契機に様相が変わってきました。
当たり前でなかった旧教会が、当たり前のことを言い出した…これは実に画期的な事と言わねばなりません。
開かれた教会というものを打ち出し始め、それまでは考えられなかったようなユダヤ教、回教などの他宗派との対話といった試みがなされていったのです。前記の禅との関わりなどもこの流れから見られるようになったのです。
そして、もっと開かれていなければならないはずの新教各派は、完全に置いてけぼりを食わされた形となり、旧態依然のまま取り残されたといった感が有ります。
相も変わらず自称、他称の正統派が幅を利かせていて、今でも「私の信仰の在り方は正しいんだろうか、間違っているんだろうか?」と神経症気味の信者たちは、自分の人生なのに牧師先生の正統的判断に委ね続けている始末です。それが正しいかどうかは分かりませんが、(聖書に照らそうがどうしようが)内なる絶対者にたづねない限り、どこまでも”ああでもない、こうでもない”と、堂々巡りの繰り返しでしょう…
”イエスは神の子””三位一体””十字架の贖罪”これらの信仰のハードルをクリアーしなければ信者になれないのだと言う…
”僕には信じられなーい!”だったら止めりゃあいいだけでしょ? 実際にこのような人に会ったことありますが、それでも信者になりたいと言う、その心理が私には理解出来ません。
でもこのようなことは、全ての”信じる宗教”について言えるのではないでしょうか?
つまり、キリスト教(特に今は新教)に典型的な宗教の雛形を見ることが出来るかと思います。
宗教の名の下での戦争、弾圧…これらの殆どにキリスト教自体が関わって来たし、他宗教によるものでもキリスト教がらみの遠因が求められるものが多いです。
しかし、一体どうして教会はイエス時代からは全く似ても似つかないように変質してしまったのでしょうか?
私が思うにキリスト教は初期の頃から、現実世界と関わって来たからだと思います。そこからしばしば社会運動が生まれたようにです。(共産主義も、ナチズムも、そして我が国の天O絶対の国家主義も基教がらみの遠因で出現したようなものです)
この事はしかし霊性の希薄化を招く要因となってしまったようです。
そして今やネオ・ノンデュアリティなるものが台頭して来て”あんたたちの時代はもう終わった!”と通告をしているかのようです。
それが摂理であれば仕方のないことでしょう。
しかし信徒たちはどうして現世の諸々の魔的力にさらされながらも俗の中に入っていたのでしょう?大きなツケを残して…
イエスの福音は”神の国が来た!”で始まりましたが、神の国とはこの現実世界とは別のどっかの高次元の世界なんでしょうか?
いいや、私にはここを置いて他には考えられません。
神の国とこの堕落し切った現世…これは一つになる?
キリスト教が別のものに生まれ変わった時?…。