人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

どうにもならない人生

2015-06-08 02:03:49 | 雑感
最近、欧米でよく知られたネイサン・ギルというノンデュアリティ系の教師が自殺してしまったそうです。
ことの経緯はよく分からないのですが、病苦を抱えていたとのことです。
私は”自殺は悪いことだ”とか”自殺者は救われない”とか決めつけたことは言いたくないですし、そういう運命をたどったからと言って、その人の生前の業績が評価されなくなるとも思いません。
そしていつも愚痴っぽいこと書いてて、皮肉の様に聞こえるかもわかりませんが、このような事態について”自殺するような個人など最初から居ないんだし、ただ起きる事が起きているだけなんだ!”などとはとても言う気にはなれません。当たり前のことながら…
今静かなブームになってる感のあるこの所謂ノンデュアリティに触れて、苦境から救われたり、目覚めに預かるといった方も多いことでしょう。
ただ、どこかその言説に、厭世的なものが感じられないでしょうか?
その言説をまともに、そのまま受け入れようとしたら、生きていく上での意欲というものが薄れていくんじゃないか、と感じてしまうのですが…
元々こうした思潮が台頭してきた背景には、今の時というものが目覚めの契機が生まれやすくなって来ているという反面、貧困、暴力といった諸々の社会不安などで苦難の材料も又多い、生きにくい土壌にある、という事も言えると思います。
そして自殺者の増加という事も私は密接な関係が有ると考えています。
だからと言って、この思潮が自殺を誘発していると言っている訳ではありません。(今後どのようになるかは分かりませんが)人類全体がこんな世界じゃなかった…と気付き出した、と言ったらいいでしょうか?
本当に深刻な苦難…それは取りも直さず心が苦しんでいる、という事を意味しています。
それは大本から分離した個人、苦難を背負った個人など幻想に過ぎない…という事に気づくことにより解放される…
これは一面真実と言わねばなりません。私も経験してますから…。
ただ次の事はどうしても強調しておきたいです。
私は前からこういう理屈は知ってますよ!私は共感してエックハルト・トール氏の本など読んでましたから…
余談ですが、あれは私のためにある本だと思ったくらいです。”手放し、降参します…いつするか…今でショ! パワー・オブ・ナウだ!”
”私がいつも言っていることは、ホレここに書いてあるぞよ!”などと知人に調子こいて触れまわってましたっけ…
”殆ど素っ裸だったラマナ・マハルシと違って、背広を着た賢者が出てきて、こりゃあ、いよいよ楽しい時代になってきたものだ”などとノーテンキだったのは束の間でした。
(ちなみにエックハルト氏は今日のノンデュアリティ原理主義者のようなところは無いですね。)
しかし、現実に苦しみを抱えているようになって、すっかり心が重い鎖に繋がれたようになり、やがて苦難に満ちた精神に周りが密閉されんばかりの状態に陥ってしまったのでした。
こんな状態の時、いくら”過ぎ去った過去とか、来ない先のことに意識を向けないで、今ここ、今ここに…なんだ”と自分に言い聞かせるように、気付こう、気付かなければ!と思おうとしたって徒労に終わり、同じところをグルグル回っているだけなのでした。
しかし…ある時一瞬で手放せました! 降参しちゃいましたよ! ペシャンコですとも…
私は、手放そうとしたんじゃない、降参しようとしたんじゃない、気付こうとしたんじゃないのです! こういう”自分から”という試みでそうなったという事など、ただの一度もあった試しなどありません。
上よりの恩寵の光に触れたのです! 何でそうなったかはよく分かりません。祈り心地だったのは確かですが…
目覚めに預かるってそういう事じゃないですか? そこで知らされるのです。そういう事は自分の一存、分際の事じゃどうしようもないことなんだ、と…
そして本当の自分の人生(に見えるもの)には、大本の命の意志というものが厳然とあるんだ、と…
だから自分でいくら深遠な人間離れした言説を理解しよう、気付こうとしたって堂々巡りなのです。
この大本から切り離されたどんな深遠な教えも、究極の真理も、それ自体分離した幻想になるでしょう。
又、与えられた人生を自分の一存だけで…通気口から命そのもの風~プノイマが吹き込むまでは…決着などつけられないはずです。
どっちみち人生は自分でどうにもなりませんね…上で舵を握られているようで…









コメント
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