先日、立て続けに仕事場で二人の20代の会社の同僚と雑談する機会が有りました。
身の上話に話が及んで…これがオカシイのなんのって…いや笑えません!
この二人の話から垣間見れたのは、彼らは共に今日言うADHDだったということです。
そうです!アンタらはオカシイですとも!アブナイでしょ! 刃物を投げるなんて…まるで私の鏡を見ているようです!
私が小学1年の頃はまだADHDなんて言葉は知られていませんでしたが、もう授業中教室の中を走り回るわ、机の上にある筆記類、ノートなどを自分の席、隣の席見境なく落っことすわ、スカートめくりしまくるわ…手が付けられないガキでした。
ある時、担任の先生から母が呼び出され、職員室で「お宅のお子さんは困ったもので…」とかコンコンと説教され、母はしくしく泣いていました。
確か特殊学級がどうのこうの、という話も小耳に入りました。(そっち行きは免れましたが)
私がもっと大きかったら、その先生をブン殴っていたかもわかりません。
この頃の私は何か白昼夢の中に居たみたいで、何が夢で、何が現実だか訳がわからなくて、いつも「どうしたらいいかわからないよーッ!」と叫びたい気持ちでした。
「ここは僕の住める世界なのか? いや生きるとはどういうことなのか? 僕の周りにあるのはみんなプラスチックじゃないのか?」
そんな気分も小学2年になって、どうにかナリを潜めるようになりました。
興味シンシンなこと、楽しいことに引き付けられるようになったからです。
でも私の内面にはずっと、この人生のすべてにわたる懐疑~現実感の稀薄、不確定感、といったものが根底に横たわっていたのです。
一体何を問題にしているのかさえ分からない…だが、それは全くそれが明かされなくば、全ては無意味、存立もなしえないという根本的問題です。
この暗部に電撃の様に光が与えられたのは、大学4年の時哲学者ベルジャーエフの本を通じてでした。
そして…その事が引き金になってか、私はその問題を自分で考えたり、修行して解明することなく、数年後突如開かずの扉が開いて、引き入れられてしまったのでした。
といっても、そこですべてが解明しつくされた訳でも無く、あくまで突破口が開かれたに過ぎないのですが…
私は先の二人と話しているうち、以前から薄々と感じていたことが脳裏に浮かび上がってきました。
それは、ここ最近あちこちで見聞きしている目覚めの現象、これと”この世というものがどうもシックリこない”という人たち、その中にはADHDとか発達障害のレッテルを張られているであろう、人たちの存在とつながりがあるんじゃないか?という事です。
そもそもこういう人たちは病気なのか? 変なのか? ちなみに私はひょっとしてまだADHDから卒業できてないんじゃないかと思い、大人のADHDの特徴について調べてみました。
すると…こんな説明が目に留まりました。
「こういう人は子供のように見える」
「将来を見据えて人生設計をしたり、大きな目標のために今我慢するといった、大人に求められるスキルが足りない」
”こりゃあ、いい!” 私にはこれはまるでADHDに対する賛歌のように思えましたよ!
私が誇りにしてる唯一のことといったら、例えば美しい夕焼けなどを見て、今でも子供のように感動してしまうという事です。
人生経験にたけたロートルには分からんでしょうけど…
将来を見据えて…ですって! 今の世の中そんなにお気楽に生きていけるんですか? 底辺に生きてるもんでちっともわかりません。
また今我慢ばかりしてる人はお気の毒ながら、今ある幸福に預かることが出来ません! ”よかったなあ、現役のADHDで…”
昔の私はご多聞に漏れず、人から変に思われるんじゃないかと、周囲の目を気にしてばかりいました。
それが今じゃ、忍術”掌返し”というか、”居直り”と言うか…
これは危険思想かもわかりませんが、私はこの世の中、他者に迷惑掛けなけりゃ何してもいい、どう生きてもいいと思っています。
”アンタはオカシイ、変だ”と言われようと言わせておけばいいのです!
変なのでは無い! ユニークなのです!オンリーワンなのです!
私と同じ人間など、どこ探してもいまい…多分、私が狂っているか、世界が狂っているか…どっちかなんでしょう…
”この世がシックリこない”という人は覚醒者予備軍か、さもなきゃ宇宙人です。
今日もどこかで爆発が…それともお友達がお迎えに来ているのか…
身の上話に話が及んで…これがオカシイのなんのって…いや笑えません!
この二人の話から垣間見れたのは、彼らは共に今日言うADHDだったということです。
そうです!アンタらはオカシイですとも!アブナイでしょ! 刃物を投げるなんて…まるで私の鏡を見ているようです!
私が小学1年の頃はまだADHDなんて言葉は知られていませんでしたが、もう授業中教室の中を走り回るわ、机の上にある筆記類、ノートなどを自分の席、隣の席見境なく落っことすわ、スカートめくりしまくるわ…手が付けられないガキでした。
ある時、担任の先生から母が呼び出され、職員室で「お宅のお子さんは困ったもので…」とかコンコンと説教され、母はしくしく泣いていました。
確か特殊学級がどうのこうの、という話も小耳に入りました。(そっち行きは免れましたが)
私がもっと大きかったら、その先生をブン殴っていたかもわかりません。
この頃の私は何か白昼夢の中に居たみたいで、何が夢で、何が現実だか訳がわからなくて、いつも「どうしたらいいかわからないよーッ!」と叫びたい気持ちでした。
「ここは僕の住める世界なのか? いや生きるとはどういうことなのか? 僕の周りにあるのはみんなプラスチックじゃないのか?」
そんな気分も小学2年になって、どうにかナリを潜めるようになりました。
興味シンシンなこと、楽しいことに引き付けられるようになったからです。
でも私の内面にはずっと、この人生のすべてにわたる懐疑~現実感の稀薄、不確定感、といったものが根底に横たわっていたのです。
一体何を問題にしているのかさえ分からない…だが、それは全くそれが明かされなくば、全ては無意味、存立もなしえないという根本的問題です。
この暗部に電撃の様に光が与えられたのは、大学4年の時哲学者ベルジャーエフの本を通じてでした。
そして…その事が引き金になってか、私はその問題を自分で考えたり、修行して解明することなく、数年後突如開かずの扉が開いて、引き入れられてしまったのでした。
といっても、そこですべてが解明しつくされた訳でも無く、あくまで突破口が開かれたに過ぎないのですが…
私は先の二人と話しているうち、以前から薄々と感じていたことが脳裏に浮かび上がってきました。
それは、ここ最近あちこちで見聞きしている目覚めの現象、これと”この世というものがどうもシックリこない”という人たち、その中にはADHDとか発達障害のレッテルを張られているであろう、人たちの存在とつながりがあるんじゃないか?という事です。
そもそもこういう人たちは病気なのか? 変なのか? ちなみに私はひょっとしてまだADHDから卒業できてないんじゃないかと思い、大人のADHDの特徴について調べてみました。
すると…こんな説明が目に留まりました。
「こういう人は子供のように見える」
「将来を見据えて人生設計をしたり、大きな目標のために今我慢するといった、大人に求められるスキルが足りない」
”こりゃあ、いい!” 私にはこれはまるでADHDに対する賛歌のように思えましたよ!
私が誇りにしてる唯一のことといったら、例えば美しい夕焼けなどを見て、今でも子供のように感動してしまうという事です。
人生経験にたけたロートルには分からんでしょうけど…
将来を見据えて…ですって! 今の世の中そんなにお気楽に生きていけるんですか? 底辺に生きてるもんでちっともわかりません。
また今我慢ばかりしてる人はお気の毒ながら、今ある幸福に預かることが出来ません! ”よかったなあ、現役のADHDで…”
昔の私はご多聞に漏れず、人から変に思われるんじゃないかと、周囲の目を気にしてばかりいました。
それが今じゃ、忍術”掌返し”というか、”居直り”と言うか…
これは危険思想かもわかりませんが、私はこの世の中、他者に迷惑掛けなけりゃ何してもいい、どう生きてもいいと思っています。
”アンタはオカシイ、変だ”と言われようと言わせておけばいいのです!
変なのでは無い! ユニークなのです!オンリーワンなのです!
私と同じ人間など、どこ探してもいまい…多分、私が狂っているか、世界が狂っているか…どっちかなんでしょう…
”この世がシックリこない”という人は覚醒者予備軍か、さもなきゃ宇宙人です。
今日もどこかで爆発が…それともお友達がお迎えに来ているのか…