人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

霊的な事、心霊的な事

2015-06-17 14:05:54 | スピリチュアル?
今回もオカルト的な事に触れてみます。
昨日、テレビでついつい観ちゃった…”映っちゃった”特番。
ソファに腰かけていた女の子が立ち上がって、離れた瞬間…出た!霊だ!ワオッ!撮影者に向かって飛びかかってきたゾーッ!…
しかし、これは多分ヤラセでしょう? 私には立ち上がった時に見えたパンツの方が気になってしまいました。(笑)
(別にテレビ局を訴える気など毛頭ありません…面白けりゃいいのです)
私は心霊現象というものを否定しませんが、所謂幽霊があんな風にヒューマン・ライク?な動きはしないものだと思っています。特有の動き方?ってものが有ると思うのです。
だからと言って私はほとんど(起きている時には)そういうものを見たことないので詳しいこと言えませんが…
ただし、所謂レム睡眠と言われる半睡眠状態の時、ケッタイなものをイロイロ観たりします。
人の顔…ボンヤリしてて分かりづらいですが、どの霊もも少し元気で明るい表情が出来ないものかなあ、と思います。
何故そういうものが映じられてくるのかは勿論分かりません。まあ、深層意識が造り出している幻影だと思ってますけど…
(ハッキリ言えることは、そういうものを見ている時は、ロクな意識状態でない、ということです)
誰かが幽霊の正体は、残留思念である、と言っていたのが何となく腑に落ちます。
(これは人が死んでも意識体?は残る、という仮定の上での話ですが…)
幽霊なるものは、思念が意識を持った本体から独立したものなのじゃないか?という気がします。
だから誰それの霊と言う言い方は適切なのかどうか?
全く気の抜けた、生気が感じられない表情をしているのは、意識から切り離されているためでしょう。
この事はあくまで、私のロクでも無い半睡眠状態から得た、憶測にすぎないのは言うまでもありません。
その状態からはまた金縛りというおなじみの事態にも見舞われたりします。
この事と私がしばしば述べている、上よりの力に捉えられて、心身の機能を失ってしまう、という事との関連は?
多分、客観的に見たら同じように見えるのでしょうが(勿論私は見たことないです。幽体離脱?状態でも…)これは実感的に全く違います!
何が違うって、意識状態が違います。文字通り、眠りこけているか、覚めているかの違いです。
あるいはまた、思念的なものに閉ざされている、それを超えていること、主体的になっているか、そうでないかの違いとも言えるでしょう。
スピリチュアル、霊的などと言うと、これらのことがゴッチャに語られることが多いようですが、私は霊的なこと(あくまで便宜的にこう表現しているのです)と心霊的なことは区別して使うようにしています。
キリスト教ではこの辺りのことは自ずと認識されており、例えば聖霊体験のことは心霊的な事としては語られません。
ここで微妙なのは所謂守護の神霊、ガイダンスについての理解です。
私はこれに関し巷で流布されている、例えば動物霊、迷いの霊は低級霊、守護霊は高級霊などといった心霊学的理解には同調出来ません。
ガイダンスは思念的領域を超えているものであろうからです。低い、高いというものが有るとされる心霊的次元とは関わるものでは無い、と思われます。
我々自身も思念が突破されなければ、その現臨を実感することが出来ません。
このように、霊的なこと、心霊的なことの区別はとても重要な事と思われます。
考えてもラチが開かない事と、どこまでも空想していく事との違いといいましょうか…
それは我々が”ヨーシ!それについて深ーく踏み込んでみよう…”とした時にハッキリする筈です。
前者の場合、それは全く他人事でなく、自分自身の内的な問題として意識され、”私はここに在る”ことに目覚めることが出来ます。
後者の場合、段々自分でない別の何かに意識が流れていってしまい、”心ここに在らず”といった事態になりかねません。
そのうち浮遊霊だか浮遊人だか分からなくなりかねません。
そういうのはテレビで観てるに限ります。
ま、人生もこの世界もテレビを観てるように感じ出したらいいんでしょうが…。





コメント
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