人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

誰も止められない

2015-06-04 20:08:45 | スピリチュアル
”世界的規模の大地の鳴動、火柱の噴出…一体誰が止められようか!”もう、こんなノリで書くのは一寸控えようと思います。
だって毎日どっかでドッカーン!グラグラ…地球全体が目覚めたかのように…あれはあくまで精神的変容があちこちで起きていることのたとえで言ってただけなのに…こうなると心ある人たちで大難を小難にと、弭化の祈り、神呪を捧げねばなりません…。
神様の都合と人間様の都合は上手くバランスが取れないものでしょうか…

この神秘体験、覚醒体験というものですが、まだ言葉ばかり一人歩きしていて、そもそもそれは体験と呼んでいいものなのか…といったことなど、まだきちんと認識されていないためか、一寸ズレたような受け取り方も見受けられます。
まず”体験の無いヤツはデメなんだ”と決めつけ、さもその体験を特別視したりしている所謂体験ボコリという人がいます。
私自身その体験らしきことに預かった時、もう、どうしようもなく有頂天にさせる上昇気流的気分に舞い上がってしまいました。
ただ、それは優越感というより、爆発的歓喜の噴出が強く支配していたのですが…
(思い返してみると、どうしようもない歓喜がもたげて止まなかったら、素直にその喜びを味わえばいいと思います。)
それにしても体験ボコリって人はまるで独裁者気取りで、まるで周りに誰が居ようと、”自分の世界が全てなんだ!”というようなもの言いようです。
実に鼻持ちならなくて、そのテング鼻をくじいてやろうと闘志を燃やしたのですが、強そうなのでやめました。(笑)
そうかと思えば中々自分がその体験に預かれないところから、誰かが言っているのを引き合いにして”悟るも、目覚めるもなにもみんな最初から悟っているんだから、そんなものどうでもいいんだ”と自分で勝手に決め込んでしまう人も居ます。
その言い方というものは全くもって他人事、観念事で解釈し、その世界だけで決着してしまっているかのようです。そうです!全くどうでもいいことなのでしょう。当人にとっては…
しかし、そういう事を公的に、他人の前で発信しているとしたら、それを聞いている個々によってはどうでもいいことで済まない人だって居るはずです。
もし、その人を通して普遍世界よりの叡智が顕れ出よう、目覚めようとしているとしたら…観念事で決着されて済まされるでしょうか?
ある集会で、このような事を人に一生懸命説き伏せている人が居るのを見て、何ともやりきれない気持ちでいっぱいになってしまいました。
これから素晴らしいことが始まるかもしれないのにそれを塞いでしまうような試み…私にはどうにも我慢がなりません。
一方は自分中心、もう一方は他人事…私はどちらにも違和感を覚えるのは、その体験らしきことに預かるのは、その個人に帰せられてしまう、というところから来るのだと思います。
また別の観点で、”目覚めに預かると超人か聖人君子のようになって迷ったり、感情を乱したりせず、奇跡的な事をやってのけるものなのだ”などと勝手なイメージを持ってしまう事も、やはりそうした特別な個人が居るという思い込みからでしょう。
そしてその個人を対象化し、自分とはかけ離れた存在として見てしまうのでしょう。(体験ボコリの場合は多く自分を対象化してしまうようです)
誰がどうなる、こうなるじゃない…起きる事が起きてんだ!…いや、隠れていた巨人がその人を通して顕れたんだ!
もし、自分の足元に大地の鳴動を感じたら、とても他人事や、チッポケな自分限定の思いなどに留まってはいられなくなるでしょう。
お手上げ状態にならざるを得ないです。
誰にもその人の一存でどうなるってもんじゃない…どうにかなるんだったら、誰かこの世界的規模の地殻変動を止めてみてくださいな!
                






















コメント
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