釈迦やイエスが如何に偉大な聖者であったにせよ、自分自身をどっかに置いて崇め奉っていてもしょうがないですね。
この世の自称覚者にしろ、生き仏にしろ生まれつき悟った人など居ないのです。
どんな人でもある気付きというものが契機になって、悟ったようなことを言い出したのです。
如何に人間離れしたことを語っていようと、皆人間だった…
覚者や教師らの上からのお話を鵜呑みにする前に、こういう当たり前のことは認識しておく必要が有りますね。
そして最も肝心なことは、語られること、学ぶことは、他ならぬ今のあなた自身にとっての問題であるということです。
二元性の終わりとか探究の終わりだとかいう事でも、それはアカの他人がどうこういう事でなく、それを判断し、決めるのはあなた自身であるのは言うまでもありません。
この気付きということですが、これは”自分は気付いていないんだ、何も知ってなど居ないんだ”ということに気付くことなしに、そういう事は起きませんね。そしてそこには自分を超えた気付かせてくれるものがあった。
つまり二元性というものはどうしても必要なのです。これを誤魔化して分かったつもりになることの危うさについてはいつも触れていますが…
そして、その奇しき出会いの瞬間というのは、なにか遠い昔の楽園生活とも感じられるような記憶が蘇り、今生で味わえないような霊なる親との対面に預かるのです。
ある種のキリスト教に見られる聖霊体験ではこの霊なる親は多く、”あれは間違いなくイエス様です!”と平然と語られます。”あなたは本当に見たのか!確証でもあるんですか?”と突っ込みを入れたくもなるのですが、”信仰は自由”というお互いの暗黙のルールが有るので…私は無宗教でいたいし…
ただ、こういう事態には”かくありたい”とかいった人の意識状態というものも反映されるようです。
この話を別の視点から見ると、クリスチャンは羨ましいと思います。聖書という実にドラマチックな書き物に自分の体験をなぞらえることが出来て…
”聖霊を受けると、聖書の文字が立体的に飛び出してくるんだ”という言葉も何となく分かります。
キリスト・イエスというのは人となった神ですね。西田幾多郎、毎田周一流に言えば、”絶対無の自己限定”です。
私の想像ですが、彼にはプロトタイプともいうべき存在が居たと思われます。
それは堕落した天使ルシファーです。彼の試みは神のようになろうという、自意識のもと衝動のままに動かされたのかも知れません、それがサタン的な試みだったかも知れません。でもそれは壮大な神と人間の劇として捉えれば、偉大な開拓者の冒険にも映ります。
この試みが子たる人間の誕生と関わっていたとしたら…彼は来るべき新次元の到来の先触れなのです。
故に”明けの明星”と呼ばれていたのでしょう。
ところで、罪なきイエスは何故、十字架を負わねばならなかったのでしょうか?人類の罪の贖い? 先代が犯した罪の贖い?…
イエスは周りからは神の子と呼ばれていましたが、自らは人の子と呼んでいました。
また使徒パウロは彼のことを堕落した、古いアダムに対して、”第二のアダム”と呼びました。
彼の福音書に見られる事績、言行の数々は人間は何処から来て、何処へ行くのか…人間そのものについての証なのではないでしょうか?
彼は旧約説話に基づけば、知恵の樹のみならず、アダムが見出せなかった生命の樹と共にあったのでしょう。
生命の樹とは一なる神に連なるものです。
イエスの出現は、知恵の樹により分離した我々を再び結び合わせるためだったのでしょう。
それは数千年前の聖書の記事のことなのでしょうか?
それとも来るべき普遍的人類の未来についてのことなのでしょうか?
いや、彼を信じようと信じまいと、我々一人一人のドラマからしか本当のところは示されないことでしょう。
それはさしずめ第三のアダムの開示といったところでしょうか?…
この世の自称覚者にしろ、生き仏にしろ生まれつき悟った人など居ないのです。
どんな人でもある気付きというものが契機になって、悟ったようなことを言い出したのです。
如何に人間離れしたことを語っていようと、皆人間だった…
覚者や教師らの上からのお話を鵜呑みにする前に、こういう当たり前のことは認識しておく必要が有りますね。
そして最も肝心なことは、語られること、学ぶことは、他ならぬ今のあなた自身にとっての問題であるということです。
二元性の終わりとか探究の終わりだとかいう事でも、それはアカの他人がどうこういう事でなく、それを判断し、決めるのはあなた自身であるのは言うまでもありません。
この気付きということですが、これは”自分は気付いていないんだ、何も知ってなど居ないんだ”ということに気付くことなしに、そういう事は起きませんね。そしてそこには自分を超えた気付かせてくれるものがあった。
つまり二元性というものはどうしても必要なのです。これを誤魔化して分かったつもりになることの危うさについてはいつも触れていますが…
そして、その奇しき出会いの瞬間というのは、なにか遠い昔の楽園生活とも感じられるような記憶が蘇り、今生で味わえないような霊なる親との対面に預かるのです。
ある種のキリスト教に見られる聖霊体験ではこの霊なる親は多く、”あれは間違いなくイエス様です!”と平然と語られます。”あなたは本当に見たのか!確証でもあるんですか?”と突っ込みを入れたくもなるのですが、”信仰は自由”というお互いの暗黙のルールが有るので…私は無宗教でいたいし…
ただ、こういう事態には”かくありたい”とかいった人の意識状態というものも反映されるようです。
この話を別の視点から見ると、クリスチャンは羨ましいと思います。聖書という実にドラマチックな書き物に自分の体験をなぞらえることが出来て…
”聖霊を受けると、聖書の文字が立体的に飛び出してくるんだ”という言葉も何となく分かります。
キリスト・イエスというのは人となった神ですね。西田幾多郎、毎田周一流に言えば、”絶対無の自己限定”です。
私の想像ですが、彼にはプロトタイプともいうべき存在が居たと思われます。
それは堕落した天使ルシファーです。彼の試みは神のようになろうという、自意識のもと衝動のままに動かされたのかも知れません、それがサタン的な試みだったかも知れません。でもそれは壮大な神と人間の劇として捉えれば、偉大な開拓者の冒険にも映ります。
この試みが子たる人間の誕生と関わっていたとしたら…彼は来るべき新次元の到来の先触れなのです。
故に”明けの明星”と呼ばれていたのでしょう。
ところで、罪なきイエスは何故、十字架を負わねばならなかったのでしょうか?人類の罪の贖い? 先代が犯した罪の贖い?…
イエスは周りからは神の子と呼ばれていましたが、自らは人の子と呼んでいました。
また使徒パウロは彼のことを堕落した、古いアダムに対して、”第二のアダム”と呼びました。
彼の福音書に見られる事績、言行の数々は人間は何処から来て、何処へ行くのか…人間そのものについての証なのではないでしょうか?
彼は旧約説話に基づけば、知恵の樹のみならず、アダムが見出せなかった生命の樹と共にあったのでしょう。
生命の樹とは一なる神に連なるものです。
イエスの出現は、知恵の樹により分離した我々を再び結び合わせるためだったのでしょう。
それは数千年前の聖書の記事のことなのでしょうか?
それとも来るべき普遍的人類の未来についてのことなのでしょうか?
いや、彼を信じようと信じまいと、我々一人一人のドラマからしか本当のところは示されないことでしょう。
それはさしずめ第三のアダムの開示といったところでしょうか?…