人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

無即有

2015-10-11 13:11:27 | 哲学・思想
齢のせいか、最近日常で自分を表に出そうという意欲が薄れてきました。
このブログでも偉そうに、人に何かの教えを垂れるような物言いをすることが、何だか罪深いこと、余計な事のように感ずることしきりです。
これも如何にも”教えたがり”のような言説に触れて学ばされているおかげです。
いやあ、それにしても…有難いことです…何が?って、別に…そのお…生かされているって事がですよ~
ホントにどおってことないです。ただその隙間ににチラホラ覗いているものに意識を向けると、いや向いちゃうと…言葉で表せないものに包まれてきます。
度々それを”ジンジンしてくる”という訳の分からない表現で伝えています。
最近、これに付加される意識状態が有るのを発見しました。
といっても、それはずっと前から示されていました。
ただ、それが改めて意識に上ってくると何か付加されたように感じる、という事です。
それは言葉で伝えるのは難しいのですが、”身を引く、自分を退ける”というようなものです。
誤解を受けるかもわかりませんが、そういうことを行為的、能動的にするという事では全くありません。
そういうものが始まる以前に、そうなってしまうのです。
分からない? 多分?…微妙な事でしょう…
私はこういう風に書いてみて、どういう風にそうなるのか、という具体的な方法などに触れないのは不親切だと思ったりもするのですが、いくつか理由が有って示さないのです。
分かり切った理由は、私自身がその方法を知らないから…
少しばかりの覚えたテクニックやロクに役に立たない知識を寄せ集めて、粗製秘儀伝授?を無い頭でひねり出すこともあるいは可能かもしれません。
だが、それは考えただけでも欺瞞に過ぎません。私はそんなものに頼ったことなどありません。
そんなものが最善の方法であるわけが無いのです!最善の方法とは私が考える限り”方法が無い”ものに違いないです。
そしてこの逆説的最善の方法は絶対、私があなたに代わって示すことなど出来ない…これが先の理由の一つです。
ただ、私は一つ道標らしきことを表せば”祈り”というもの、”祈り心を持つ”ということを揚げたいと思います。このこと自体自己を退けるという事につながります。
何をどう祈るかなどと言う事は、その人の最善のものに任せるだけですが…
実に微妙にして自明な事ではありませんか?
”自分を引く、退ける”とはそもそも自己なるものが微妙なもので、固定した実体無きものに導かれるという事です。
特別な方法などというのは、システム化して固定したものになってしまった途端、その生命を失ってしまうものです。
これも先の大きな理由ですね。微妙だからこそ自由なんです。
で、そこから思われたような”自分はいない”という意識になります。
でも、その混沌から時に又別なるものが立ち上ってきます。
”私はある”という意識と共に…でも、それも思われていた自分ではありません。
言うなれば”我ならぬ我”といったものです。それはそれまでの自分でない一方で、生まれる以前から知っていたような真の自己のような実感をともなうものです。それは自己の無化によって顕現されるものです。
この消息が曖昧なままだと時に”我ならぬ”でない、”オレオレの我”がモンスターのように暴走します。
”私はいない”も”私はある”もどちらも分かち難くあるものです。
偏ってしまっては”ある筈のものが無くなり、無い筈のものがバッコする”だけです!無即有です。
となると表通りの日常を生きてる自分は一体何なのか?
ウーン…分かりません。中途のまま生きてるって事なんじゃないですかね。
世渡りとかって言いますし…プロセスを楽しんでるっていうか…私など旅行などで一番楽しいのは乗り物に乗っている時です。
ああ、今年は絶対紅葉見に行きたい!…






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする