読書の秋です。
最近はネットを通じてあらゆるものを読める時代となり、本を買って読むこともめっきり減っているようですね。
でも、私は画面を通じてだとジックリ味わって読むという気がどうしてもしてきません。
読書というのは実際に本を手に取って、その重みとか肌触りを感じ、ページをめくっていくという一連の儀式ともどもから醸し出されてくるものじゃないかと思います。
精神とかスピ系の関連ですと、それらは形ある文字を超えた直観的領域にも関わるので、書物という存在も軽んじる傾向もあるようです。
”本なんか読んでたって、意識が目覚める訳でもないだろう”と感じてる人も多いことでしょう。
しかし、活字というものの役割が絶対的とも言える現代世界では、それが見えるものと見えないものの媒体ともなり得ると思います。
この意味で、私には仏教学者玉城康四郎先生が語る驚愕のエピソードが忘れられません。
先生が学生の頃大学の図書室で、何気なく「十地経」というお経を読んでいた時、爆発的目覚めに預かったということです。
私は試しにその本を読んでみたところ…眠たくなってきました(笑)。何か難しくて…
こういった話は他にもいくつか触れていますが、読み手と書き手と不可知のもの?との縁次第で起こるものだと思います。
世に言う座右の書というのは私にとり、この意味で揮発性に富んだものです。俗に言う名著と誉高い本など一冊もありません。
世間で評価されているから、評判だから読むのではありません。
手に取った瞬間、”待っていたゾ!”とばかりに迫るものを感じるから読むのです。
小池辰雄「無者キリスト」、ベルジャーエフ「精神と現実」「わが生涯」、M・M・ベイン「心身の神癒」「解脱の真理」、「日月神示」、謎の団体D会の聖典「三千冊」…
これらについては、いずれも昭和54~55年にかけて巡り合ったものです。勿論座右の書との出会いはこの時期に限ったものでは無いですが、この時期というものが私に特別な意味を想起させるのは、ある種の内的感覚がともなっていたからです。
見えざる導きというものを身に覚えていたのです。前述のように迫るもの…”読まずに死ねない”と感じるものに促されて入手し、読み始めるといつも、その独特の高揚感がもたげてきて、頭がボーッとなり、何をどう読んでいるのやら分からなくなってきてしまったほどです。
書かれている内容も、スタイルも違いますが、この感じそのものは同じです。
つまりは私のこの時期に知った座右の書というのは、異なる著者、教師たちとの関わりのみならず、見えざる導師との関わりと共にあった…という事なのです。
そこにどういう事が書かれているか、ということよりあの感覚によって印象づけられているのです。
その高揚感に浸っていた間は、何だか別世界に移行していたみたいでした。
それは数十年もの年月を超えて在るものです。
今から考えてみても、こうした読書経験から何かが爆発してしまう、という事も有り得たと思います。
事実、それに限りなく近い暴風雨に見舞われたことも有ります。
あまり知的理解というものに偏らず、共感、共鳴ということに重きを置いていると、そういう事もあるかもわかりませんね。
考えてみれば、これらの書物は座右の書というより、お経のような意味合いが有るようです。
絶版になって久しいものもありますが、折々個別に取り上げてみたいと思います。
最近はネットを通じてあらゆるものを読める時代となり、本を買って読むこともめっきり減っているようですね。
でも、私は画面を通じてだとジックリ味わって読むという気がどうしてもしてきません。
読書というのは実際に本を手に取って、その重みとか肌触りを感じ、ページをめくっていくという一連の儀式ともどもから醸し出されてくるものじゃないかと思います。
精神とかスピ系の関連ですと、それらは形ある文字を超えた直観的領域にも関わるので、書物という存在も軽んじる傾向もあるようです。
”本なんか読んでたって、意識が目覚める訳でもないだろう”と感じてる人も多いことでしょう。
しかし、活字というものの役割が絶対的とも言える現代世界では、それが見えるものと見えないものの媒体ともなり得ると思います。
この意味で、私には仏教学者玉城康四郎先生が語る驚愕のエピソードが忘れられません。
先生が学生の頃大学の図書室で、何気なく「十地経」というお経を読んでいた時、爆発的目覚めに預かったということです。
私は試しにその本を読んでみたところ…眠たくなってきました(笑)。何か難しくて…
こういった話は他にもいくつか触れていますが、読み手と書き手と不可知のもの?との縁次第で起こるものだと思います。
世に言う座右の書というのは私にとり、この意味で揮発性に富んだものです。俗に言う名著と誉高い本など一冊もありません。
世間で評価されているから、評判だから読むのではありません。
手に取った瞬間、”待っていたゾ!”とばかりに迫るものを感じるから読むのです。
小池辰雄「無者キリスト」、ベルジャーエフ「精神と現実」「わが生涯」、M・M・ベイン「心身の神癒」「解脱の真理」、「日月神示」、謎の団体D会の聖典「三千冊」…
これらについては、いずれも昭和54~55年にかけて巡り合ったものです。勿論座右の書との出会いはこの時期に限ったものでは無いですが、この時期というものが私に特別な意味を想起させるのは、ある種の内的感覚がともなっていたからです。
見えざる導きというものを身に覚えていたのです。前述のように迫るもの…”読まずに死ねない”と感じるものに促されて入手し、読み始めるといつも、その独特の高揚感がもたげてきて、頭がボーッとなり、何をどう読んでいるのやら分からなくなってきてしまったほどです。
書かれている内容も、スタイルも違いますが、この感じそのものは同じです。
つまりは私のこの時期に知った座右の書というのは、異なる著者、教師たちとの関わりのみならず、見えざる導師との関わりと共にあった…という事なのです。
そこにどういう事が書かれているか、ということよりあの感覚によって印象づけられているのです。
その高揚感に浸っていた間は、何だか別世界に移行していたみたいでした。
それは数十年もの年月を超えて在るものです。
今から考えてみても、こうした読書経験から何かが爆発してしまう、という事も有り得たと思います。
事実、それに限りなく近い暴風雨に見舞われたことも有ります。
あまり知的理解というものに偏らず、共感、共鳴ということに重きを置いていると、そういう事もあるかもわかりませんね。
考えてみれば、これらの書物は座右の書というより、お経のような意味合いが有るようです。
絶版になって久しいものもありますが、折々個別に取り上げてみたいと思います。