psyは投げられた!…ただのハッタリじゃあなかったんですね。
脱スピ・リンクはなし潰しという状態になってしまいました。
でも各ブログ主さんもずっと、その立ち位置で続ける気も無かっただろうし、あまりにも行き過ぎた記事もあり、いつかはこういう事になるのではないかとは思っていました。
それにしても、大御所さん、訴訟というこれ以上ない二元的な対処に打って出ようとは…
あの極端な非二元論は元々破たんしたものだという事を自ら証しているようです。
非二元原理主義は際立つ二元性に堕ちるしかない…
この”ストーリー”はお釈迦様でもシャンカラチャリヤでも気が付くまい…あの人はこの期に及んでも”ストーリー何てない、何かをやらかす自分何てない”と言い続けるんでしょうかね。
本当は宗教とかスピリチュアルとかいった、特別なカテゴリー何てあるからおかしくなるんだと思います。
宗教屋だのスピ屋だのがはびこり、又それに依存する者も後を絶たなくなるのです。
人にはそれぞれ生活の手段として生業があり、家庭の生活があり、余暇として娯楽とか文化活動があり…
この文化…宗教もスピもその中の一つとして見ている向きもあります。要するに宗教文化、スピ文化です。
そして”今、こんな教えがウケてますよ~””この先生が評判いいですよ~”と口コミで広がったりします。
あたかもアイドルの追っかけを彷彿させるものもあります。
そんなところに一体、何かが根付くなどと言う事が有るでしょうか?
根…根底…実は宗教やスピの内実というものは、我々の諸々の営みの根底としてあるべきものなのではないでしょうか?
それは全て、言うまでも無くここに生きている自己に帰結します。
自己とは? その不明なる自己を明らかにする、又は自己の限界にあって、自己を超える…言い方は様々ですが、これがあらゆることの根本となるべきもので、それらに通底しているものではありませんか?
何でそれが、文化活動の一つなんかに収まってなどできるのでしょう!
そして、宗教、スピ界に関わってバカを見て懲りた人は、せっせと生業、社会生活などに常識人として生き方を向き替えますか?…
空想やら妄想なんかに興じてなどいられませんからね…
それで生活も成り立って、上手くやっていけるんなら、何も言う事ないですね。
正直言って私はこの見たままの現実世界、思われたままの自己に、安心立命はおろか自分の居所すら見出せません。
訳の分からんマントラや、瞑想を紹介したり、有難そうな教えを垂れる気も毛頭ないです。
だからと言って、”スピなど卒業して、社会人としてマットウに生きて下さい”などと言えた義理もありません。
空想や妄想の世界でもなく、世間的常識の世界でもなく…ただ人間らしさを求めている、といったらいいでしょうか?
人間らしさ…それは誰しも求めていることなのですか?
想像でしか分からないようなエーテル状の人間とか、記号のように扱われる人間て人間らしいですか?
人間らしさなど、誰にも分からないのかもわかりません。
人間自体が分からないものですから…
でも、時々朝目覚めた時など、少なくとも自分らしさというものを感じる事が有ります。
それはずうっと昔から、当たり前のように知っているような、忘れていたようなあるものなのです。
だが、それはこの世の常識の範疇には絶対無いものです。
自分が何であるかも分からないのに、何故そのように感じられるのかは理解出来ません。
それは、普段思われたままの自分でないのは確かな事です。
思われたままでは、この”らしさ”は見い出せないのです。
人間はなんてスピリチュアルなんでしょうか…
脱スピ・リンクはなし潰しという状態になってしまいました。
でも各ブログ主さんもずっと、その立ち位置で続ける気も無かっただろうし、あまりにも行き過ぎた記事もあり、いつかはこういう事になるのではないかとは思っていました。
それにしても、大御所さん、訴訟というこれ以上ない二元的な対処に打って出ようとは…
あの極端な非二元論は元々破たんしたものだという事を自ら証しているようです。
非二元原理主義は際立つ二元性に堕ちるしかない…
この”ストーリー”はお釈迦様でもシャンカラチャリヤでも気が付くまい…あの人はこの期に及んでも”ストーリー何てない、何かをやらかす自分何てない”と言い続けるんでしょうかね。
本当は宗教とかスピリチュアルとかいった、特別なカテゴリー何てあるからおかしくなるんだと思います。
宗教屋だのスピ屋だのがはびこり、又それに依存する者も後を絶たなくなるのです。
人にはそれぞれ生活の手段として生業があり、家庭の生活があり、余暇として娯楽とか文化活動があり…
この文化…宗教もスピもその中の一つとして見ている向きもあります。要するに宗教文化、スピ文化です。
そして”今、こんな教えがウケてますよ~””この先生が評判いいですよ~”と口コミで広がったりします。
あたかもアイドルの追っかけを彷彿させるものもあります。
そんなところに一体、何かが根付くなどと言う事が有るでしょうか?
根…根底…実は宗教やスピの内実というものは、我々の諸々の営みの根底としてあるべきものなのではないでしょうか?
それは全て、言うまでも無くここに生きている自己に帰結します。
自己とは? その不明なる自己を明らかにする、又は自己の限界にあって、自己を超える…言い方は様々ですが、これがあらゆることの根本となるべきもので、それらに通底しているものではありませんか?
何でそれが、文化活動の一つなんかに収まってなどできるのでしょう!
そして、宗教、スピ界に関わってバカを見て懲りた人は、せっせと生業、社会生活などに常識人として生き方を向き替えますか?…
空想やら妄想なんかに興じてなどいられませんからね…
それで生活も成り立って、上手くやっていけるんなら、何も言う事ないですね。
正直言って私はこの見たままの現実世界、思われたままの自己に、安心立命はおろか自分の居所すら見出せません。
訳の分からんマントラや、瞑想を紹介したり、有難そうな教えを垂れる気も毛頭ないです。
だからと言って、”スピなど卒業して、社会人としてマットウに生きて下さい”などと言えた義理もありません。
空想や妄想の世界でもなく、世間的常識の世界でもなく…ただ人間らしさを求めている、といったらいいでしょうか?
人間らしさ…それは誰しも求めていることなのですか?
想像でしか分からないようなエーテル状の人間とか、記号のように扱われる人間て人間らしいですか?
人間らしさなど、誰にも分からないのかもわかりません。
人間自体が分からないものですから…
でも、時々朝目覚めた時など、少なくとも自分らしさというものを感じる事が有ります。
それはずうっと昔から、当たり前のように知っているような、忘れていたようなあるものなのです。
だが、それはこの世の常識の範疇には絶対無いものです。
自分が何であるかも分からないのに、何故そのように感じられるのかは理解出来ません。
それは、普段思われたままの自分でないのは確かな事です。
思われたままでは、この”らしさ”は見い出せないのです。
人間はなんてスピリチュアルなんでしょうか…