人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

罪と許し

2015-10-22 14:14:21 | 哲学・思想
ーどうしたら覚醒出来るんですかあ?
「何故、覚醒してみたいなんて思うんですか?」
ーだって、そうなるって事は人生を左右するほど、素晴らしいことなんでしょう?
「あなたはそうなったことが有るんですか?」
ー無いです…
「じゃ、どうしてそんなこと分かるんですか?」
ーだって、そういうものなのでしょう…

数年前、ある人ととのやり取りの一端です。この人は覚醒というものをこんな風に認知していました。
何かの本で読んだか、誰か(私?)から聞かされていたのかもしれません。
大事なことは、それがどういう経緯からであれ今現在その事に意識づけられているか、どうかということです。
私が感じたのは、その人においてはハッキリそうなっていたという事です。
これは私自身の言動にあるスィッチが入ることからでも分かります。
”手をのばせば、届くようにそれを認知しながらも、何故この人は一歩踏み出さないのだろう…”と思ったのですが、その人の前に立ちはだかっているのは、罪の意識だという事が見えてきました。
これはその人に限らず、あらゆる人の精神の根底にあるものです。
ことに根強いのは神の愛よりそのことに執心のキリスト教徒でしょう。
”人間は罪深い、イエスを信じなければオソロシイ裁きが待っている…”私はそういうクリスチャンに突っ込みを入れた事が有ります。
”あなたは神に裁かれた事が有るんですか? 神の愛に触れることとどっちがお望みですか?”
私は勿論無いです。ただ御多分に漏れず罪意識というものに苛んだことはあります。
じゃ、人生の裏側に初めて踏み入れた時、神のみ前で罪が暴かれ、悔い改めて、ついに許されて…という具合に…
いや、実際の場面ではそんなストーリーは知らないですね。テレビの法廷ドラマの方がずっと面白そうです。(あくまで私の個人的な経験ですが…)
むしろ、そこで”私をどうか許してほしい”と声なき声で訴えていたのは、見えざる現臨の方でした。
ただ、この許すというのは、ありのままを認めてほしい、受け入れて欲しい…といったニュアンスです。
で、”私の罪はどうなるんだ”という事が脳裏をかすめたのですが、”そっちじゃない、こっちだ!”というシグナルが…
そしてつぶさに感じました。罪意識とは神が我々に課していることじゃなく、意識の中で積み重ねられているものだと…
それはアレコレの悪いこと、やっちまったことに対するものというより、根本的な命に覆いをかけ、フタを閉めてしまっていることが本質的なものだと思います。
こういう事実に対して神は…死よりも恐ろしい裁きを持って断罪するかも分かりません。そういう事を頑なに信じ込んでいる向きには…
神のみ前に立つっていうのはそういうことじゃありませんか?…全てが明るみに出されるんですよ!
神の現臨に預かる…人生を左右するものらしい…それは世にも恐ろしいこと?…世にも素晴らしいこと?…
もうお分かりですね。起きることは同じなのです。意識がどう向いているか次第で、起きる事に色付けがなされるのです。
自分の運命を決定するのは神じゃありません。自由意志っていうものは実に重いです!
そして我々自身はどう感じているかはともかく、神は我々の魂にとって絶対的に善きことしかなさろうとしないでしょう。
魂はみんな知っているのです。”私はまだ目覚めていない”何て言っても、魂の次元では皆目覚めているのです。
”元々みんな悟っている”という主張もこの意味でその通りでしょう。
覚醒したら幸せになれると思っている人も…そんな話をした途端顔が青ざめる人も…神を信じないと地獄に落ちると信じ込んでいる人も…意識の扉が開いたら何が有るか…ただ我々の積年の思いが屈折を作り出すだけです。
何かしないと神は許してくれないと思っている人は、神と出会っても多分許しても、救ってもくれないでしょう。
神は何もしてくれないだろう…あなたに出来る事はただ現前にある…という事しかないでしょう…つまりあるがままを見るしかない!
でも、その事自体が許しであり、救いなのではないでしょうか?…覚醒とか悟りということでなく、神と共にあるという事が…











コメント
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