今月に入って、次々いくつかのブログがご自分の意志でか、追い込まれる事態になってしまったのか、閉鎖していきましたが、少し前一連の脱スピとは趣の違う”ウツじゃない…”というブログが突然閉鎖してしまいました。
その主の方は書くことにとても意義を感じておられたようですのに、私も共感する部分もあり、事情はお有りのこととはいえ残念に思いました。
ご本人が封印しているかも知れない事をあるいはほじくり返すみたいで恐縮なのですが、この方は我々の表面的な個我に隠れ、その内にある真の実体的なものを分かり易く”魂”と表現していました。
そして人生はキャラに過ぎない個我から主役であるこの魂に気付き、それに根ざして生きることにある…という意味のことが述べられていたと思います。
そうかもしれません…ただ魂と言うと、どうしても自分の中にあるもの、というイメージが付きまとい易いですね。勿論表現、感じ方というものは人それぞれですが…
私はいつも、自分の内にも(内側から顕れ出る感じ)、外にも(この場合は思いを超えて臨在してくるもの、多くは”見えざる導師”として表現しているあるもの、ある現実の場に生きて働くあるものなど…)遍在している真の主体的なものを認めていて、分かり易く表現が出来ません。
偏った非二元論に飽き飽きし、閉口している人からすると、現実世界で個我として生きている我々にとって、真我とか魂のことが分かったところで、何の役にも立たない、という声がしてきそうです。
そうですね…役に立たないでしょうね…一文にもならん!…だからビジネスに走るのかもしれませんね…
でも私は一度でも、この現実において彼の世界からの発露、それは何も悟りの契機とかいった深遠なものでなくてもいい、朝の目覚めの自分を取り戻せた、ささやかなひととき(これは大抵二度寝から覚めた時、きれいさっぱり無くなります)などに預かることが出来たら、金なぞ要らん!と感じるでしょう。(こういう事というのは、誰でも経験あるのでしょ?)
金で買えるものでは無いのです。この世のどんなに素晴らしいものとも代える事が出来ないものなのです。
それは無条件に幸せになれるものなのです。
役に立つとか、立たないとかいうのは付帯的なもの、条件付きのものという事ではありませんか?
私は勉強不足というか、ま、若い人の話に着いて行けないのでしょうが、先のブログを通じて初めて”リア充”という言葉を知りましたが、このことは直接つながりません。
又、このブログ主さんは、魂に目覚めるには、”童心”が必要だと述べられていましたが、その通りだと思います。
プライド、自分の主義主張、地位、名誉…これらは無条件の愛に預かるのに、”何の役にも立ちません!”
逆に言うと、それに預かれば、それらは手放さざるを得なくなります。
役に立たないことは求めるに値しないですか?
それとも、そういうものに預かるって話は、この現実世界で生きる事となにもつながらない事だと思いますか?
私は世捨て人みたいなものかもしれませんが、この世とかけ離れた霊界の話など何一つしてませんよ!
こっちで役に立ち、あっちで役に立たないような話ですが、それはどっちもこの現実世界の話に違いないのです。
そうです。分離は無い…我々が気付こうと、気付くまいと、表と裏はセットなのです。
役に立つということは、文字通り役割としての自分にとってのものなのです。
本当に何の役にも立たない話というのは”私はいない””全てはストーリー”という何かの真理が分かったからといって、そこに喜びも幸せも伝わってこない、という話です。
喜びを求めている、感じているのは個我であり、幻想だというのだったら、もう消えるっきゃありません…。
ホントは、言ってる本人たちもこんな話はほころびがいっぱいで、突っ込まれるばかりだという事は分かっているんだと思います。
あそこのコメント欄でも気づいている人は結構いるみたいです。
でも、派手に非二元説法をやってしまったばかりに今更引っ込みがつかなくなっているんじゃないですかねえ。
何か修正するような事言ったら、商品価値も下がりそうですし…
プライドも、意地もあるだろうし…でもホントは童心に帰りたいんでしょ?誰しもが心の底ではそう感じてるんじゃないですか…
何の役にも立たないこと書いて済みません…。
その主の方は書くことにとても意義を感じておられたようですのに、私も共感する部分もあり、事情はお有りのこととはいえ残念に思いました。
ご本人が封印しているかも知れない事をあるいはほじくり返すみたいで恐縮なのですが、この方は我々の表面的な個我に隠れ、その内にある真の実体的なものを分かり易く”魂”と表現していました。
そして人生はキャラに過ぎない個我から主役であるこの魂に気付き、それに根ざして生きることにある…という意味のことが述べられていたと思います。
そうかもしれません…ただ魂と言うと、どうしても自分の中にあるもの、というイメージが付きまとい易いですね。勿論表現、感じ方というものは人それぞれですが…
私はいつも、自分の内にも(内側から顕れ出る感じ)、外にも(この場合は思いを超えて臨在してくるもの、多くは”見えざる導師”として表現しているあるもの、ある現実の場に生きて働くあるものなど…)遍在している真の主体的なものを認めていて、分かり易く表現が出来ません。
偏った非二元論に飽き飽きし、閉口している人からすると、現実世界で個我として生きている我々にとって、真我とか魂のことが分かったところで、何の役にも立たない、という声がしてきそうです。
そうですね…役に立たないでしょうね…一文にもならん!…だからビジネスに走るのかもしれませんね…
でも私は一度でも、この現実において彼の世界からの発露、それは何も悟りの契機とかいった深遠なものでなくてもいい、朝の目覚めの自分を取り戻せた、ささやかなひととき(これは大抵二度寝から覚めた時、きれいさっぱり無くなります)などに預かることが出来たら、金なぞ要らん!と感じるでしょう。(こういう事というのは、誰でも経験あるのでしょ?)
金で買えるものでは無いのです。この世のどんなに素晴らしいものとも代える事が出来ないものなのです。
それは無条件に幸せになれるものなのです。
役に立つとか、立たないとかいうのは付帯的なもの、条件付きのものという事ではありませんか?
私は勉強不足というか、ま、若い人の話に着いて行けないのでしょうが、先のブログを通じて初めて”リア充”という言葉を知りましたが、このことは直接つながりません。
又、このブログ主さんは、魂に目覚めるには、”童心”が必要だと述べられていましたが、その通りだと思います。
プライド、自分の主義主張、地位、名誉…これらは無条件の愛に預かるのに、”何の役にも立ちません!”
逆に言うと、それに預かれば、それらは手放さざるを得なくなります。
役に立たないことは求めるに値しないですか?
それとも、そういうものに預かるって話は、この現実世界で生きる事となにもつながらない事だと思いますか?
私は世捨て人みたいなものかもしれませんが、この世とかけ離れた霊界の話など何一つしてませんよ!
こっちで役に立ち、あっちで役に立たないような話ですが、それはどっちもこの現実世界の話に違いないのです。
そうです。分離は無い…我々が気付こうと、気付くまいと、表と裏はセットなのです。
役に立つということは、文字通り役割としての自分にとってのものなのです。
本当に何の役にも立たない話というのは”私はいない””全てはストーリー”という何かの真理が分かったからといって、そこに喜びも幸せも伝わってこない、という話です。
喜びを求めている、感じているのは個我であり、幻想だというのだったら、もう消えるっきゃありません…。
ホントは、言ってる本人たちもこんな話はほころびがいっぱいで、突っ込まれるばかりだという事は分かっているんだと思います。
あそこのコメント欄でも気づいている人は結構いるみたいです。
でも、派手に非二元説法をやってしまったばかりに今更引っ込みがつかなくなっているんじゃないですかねえ。
何か修正するような事言ったら、商品価値も下がりそうですし…
プライドも、意地もあるだろうし…でもホントは童心に帰りたいんでしょ?誰しもが心の底ではそう感じてるんじゃないですか…
何の役にも立たないこと書いて済みません…。