上よりの力に捉えられると、自分の意志と自分を超えたものの意志は一つになる…
これは、ひょっとすると神人合一の境地なんでしょうか? カカッ!
昔でしたら、何十年修行したらそんな境地になれるのかと思ったものでしたが、機根がないもんで志したことは特にありません。
となると…私は生まれながらにして神の化身アヴァターみたいなものなのか!
だのに、どうしていつも迷い続けなきゃならないのか? 一向に生活が良くならないのか?
分かり切ったことです!…相も変わらずしがない渡世に明け暮れているだけのことです。
自分という個人が悟ったり、神人合一の境地に至るって事じゃない…これがホントにホントに理解されない事なんです。
見た目の建物ばかり何とかしようとしたって、しっかり土台、基礎に支えられていなければ、マンションが傾くどころでは済まなくなりますよ。
土地というものがあっての建物なのです。
そして一応この世では、地主という何サマか分からないヘンな中間宿主の許可なしに勝手に建てられないことになってます。
元からあるものなしにどうなるってものじゃない…
一生懸命セミナーに通い、瞑想し、学び続ける…”一体いつになったら神と一つになれるでしょうか?”と言ったって永久になれそうにありません。
そのうち、神の国が到来するかも知れません。それでも修行し続けるのでしょうか?…
本当にそういうものが来たら、悟りは一個人に帰されるものじゃないという事が分かるでしょう。
所謂覚者も不覚な?人も、良い人も悪い人も、皆同じ土台にあることを共有するでしょうから…
悟りの境地に至るには何段階のレベルが有るのか知りませんが、限界を持った個人がやってる限り五十歩百歩でしょう。
この浮世はまるで天とも地ともつかない、何かのつなぎ、中有状態のようです。
私はこういう風に書いていて、ある時は非二元的なことを言い換えて述べているのかしらん…と思う事もあり、また二元的な神の超越性を強調したりで、何やらようわかりませんが、矛盾している様でもどっちもそう感じるので仕方ありません。
そして、いつも感じるのは例えば個としての人間はあるとか、ないとか言いきってしまって、この両面をつなげているもの…神的なものと人間的なもの、個的なものと普遍的なものを仲立ちさせているあるものが、曖昧なままになっているのではないだろうかという事です。
様々な観方が生まれるという事は、そう感じさせているものが有るという事なのではないでしょうか?
このつながりという事ですが、これは言うまでも無く自分自身とつながっていなければ、関係が無ければ、どんなに深遠な真理について語ろうとも、ただの机上の空論に終始するだけです。
最も肝心な事は神や真理と自分をつないでいるもの無くして全ては虚しいという事です。それは支柱であり、架け橋なのです。
それは一コの断片に過ぎないものからは如何とも出来ないが、ハタラキかけてくれるのはこの大いなるつなぎの方です。
これまで幾多もの宗教思想やイデオロギーが、人類の指導理念だとか絶対的真理だとか言って大手を振って幅を利かせてきたことでしょうか?
だが、それらはことごとくが限界ある人間の中途半端な、偏った言説の押し売りという他有りません。
”私はいない”という非二元論の台頭はこれまでの人間なるものの解体の予兆なのかもわかりません。
しかし、いつまでも中途のまま、ことの部分的な顕れのままという状態などありません。
そして今までの人間が変質し出したこの今の現実に、人間を人間たらしめていた隠れたものが顕わになるでしょう。
そうなると、大手を振っていられなくなるのは地主とか所有管理に携わる人たちでしょう。
この世のものは全て仮のものであり、元からの主から借りているという事が明らかになるでしょうから…
全てのそうだとされている学説も仮説として見直され、神様にでもなったつもりで教説を垂れていた宗教家、教師は沈黙の声の前に黙るしかなくなるでしょう。
この我々のどうしようもない中途半端さも裏を返せば、元々つなぎを表すものとして備えられているからではないでしょうか?
これは、ひょっとすると神人合一の境地なんでしょうか? カカッ!
昔でしたら、何十年修行したらそんな境地になれるのかと思ったものでしたが、機根がないもんで志したことは特にありません。
となると…私は生まれながらにして神の化身アヴァターみたいなものなのか!
だのに、どうしていつも迷い続けなきゃならないのか? 一向に生活が良くならないのか?
分かり切ったことです!…相も変わらずしがない渡世に明け暮れているだけのことです。
自分という個人が悟ったり、神人合一の境地に至るって事じゃない…これがホントにホントに理解されない事なんです。
見た目の建物ばかり何とかしようとしたって、しっかり土台、基礎に支えられていなければ、マンションが傾くどころでは済まなくなりますよ。
土地というものがあっての建物なのです。
そして一応この世では、地主という何サマか分からないヘンな中間宿主の許可なしに勝手に建てられないことになってます。
元からあるものなしにどうなるってものじゃない…
一生懸命セミナーに通い、瞑想し、学び続ける…”一体いつになったら神と一つになれるでしょうか?”と言ったって永久になれそうにありません。
そのうち、神の国が到来するかも知れません。それでも修行し続けるのでしょうか?…
本当にそういうものが来たら、悟りは一個人に帰されるものじゃないという事が分かるでしょう。
所謂覚者も不覚な?人も、良い人も悪い人も、皆同じ土台にあることを共有するでしょうから…
悟りの境地に至るには何段階のレベルが有るのか知りませんが、限界を持った個人がやってる限り五十歩百歩でしょう。
この浮世はまるで天とも地ともつかない、何かのつなぎ、中有状態のようです。
私はこういう風に書いていて、ある時は非二元的なことを言い換えて述べているのかしらん…と思う事もあり、また二元的な神の超越性を強調したりで、何やらようわかりませんが、矛盾している様でもどっちもそう感じるので仕方ありません。
そして、いつも感じるのは例えば個としての人間はあるとか、ないとか言いきってしまって、この両面をつなげているもの…神的なものと人間的なもの、個的なものと普遍的なものを仲立ちさせているあるものが、曖昧なままになっているのではないだろうかという事です。
様々な観方が生まれるという事は、そう感じさせているものが有るという事なのではないでしょうか?
このつながりという事ですが、これは言うまでも無く自分自身とつながっていなければ、関係が無ければ、どんなに深遠な真理について語ろうとも、ただの机上の空論に終始するだけです。
最も肝心な事は神や真理と自分をつないでいるもの無くして全ては虚しいという事です。それは支柱であり、架け橋なのです。
それは一コの断片に過ぎないものからは如何とも出来ないが、ハタラキかけてくれるのはこの大いなるつなぎの方です。
これまで幾多もの宗教思想やイデオロギーが、人類の指導理念だとか絶対的真理だとか言って大手を振って幅を利かせてきたことでしょうか?
だが、それらはことごとくが限界ある人間の中途半端な、偏った言説の押し売りという他有りません。
”私はいない”という非二元論の台頭はこれまでの人間なるものの解体の予兆なのかもわかりません。
しかし、いつまでも中途のまま、ことの部分的な顕れのままという状態などありません。
そして今までの人間が変質し出したこの今の現実に、人間を人間たらしめていた隠れたものが顕わになるでしょう。
そうなると、大手を振っていられなくなるのは地主とか所有管理に携わる人たちでしょう。
この世のものは全て仮のものであり、元からの主から借りているという事が明らかになるでしょうから…
全てのそうだとされている学説も仮説として見直され、神様にでもなったつもりで教説を垂れていた宗教家、教師は沈黙の声の前に黙るしかなくなるでしょう。
この我々のどうしようもない中途半端さも裏を返せば、元々つなぎを表すものとして備えられているからではないでしょうか?