人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ブッダとキリスト

2015-10-12 12:34:11 | 宗教
人類の教師を代表するゴータマ・ブッダとキリスト・イエス。この二人の聖者には類似もよく指摘されていますが、対照も浮き彫りにされています。
多くはとても語れないので、ここでは主に”出たり、引いたり”の話です。
仏教では、広く人間には本来仏性というものが有る、とか如来蔵~如来を内に宿している、ということが言われ、理解されています。
しかし当のゴータマ・ブッダは、これに関してこのアートマン、真我にあたるものは有るのか、という問いに”無記~記さず”と微妙な答え方をしています。
おそらく、そのことに対し決まった見解に固執してしまう事の危うさから、そのように答えたのだと思われます。
少なくとも、ブッダは残された記録からすると、今日の非二元原理主義のような極端な言説はしなかったようです…全く似つかわしくないです。
この事に限らず、ブッダの言葉というものは”有るが如く、無いが如く”といった感じで実に微妙な言い回しが感じられます。
大体仏教というもの自体が一つのイメージとして捉えにくく、微妙でアヤフヤなものです。ブッダに直結した原始仏教だけを問題にすればよさそうなものを、禅も仏教、念仏も仏教、法華も仏教…とブッダを差し置き、数多の仏法が一人歩きして割拠しているかの如くです。
これはそもそもがブッダの仏道というものの性質が、このように微妙な色合いを持っていたからではないかと思います。
そこへいくとキリスト教というものは、仏教のような多様性は見られず、歴史的変遷から微妙な差異はあるものの、聖書という絶対的依拠があり、なによりもキリスト・イエスの存在は形は違えど、多くその聖書を通じて常に表に出てきています。キリスト教には聖書とイエスの言葉はどこまでも付きものなのです。
すなわちロゴス~言葉がともいうべきでしょうか?
そしてその言葉たるや何と自信にあふれ、自明なものとして断定的に感じられることでしょう。
「私を見たものは父を見たのである」「私の教えは私自身の教えでなく、私を遣わされた方の教えである」
そして、私は何度か目の当たりにしていますが、このキリストの福音を聖霊によって身に体していると思しき牧会者の言葉も又、まるでイエスが乗り移ったかのように、力強く、デモーニッシュに全面に出して語るのです。
このような形はおそらく旧約の預言者に遡ると思われます。
預言、すなわち神から言葉を預かるのです。人間から出るのでない…”我ならぬ我”が語るということです。
日常の自己が無化されたところから別の、真の主体が顕わになるのです。
人智学者ルドルフ・シュタイナーはブッダの道はキリストの道を準備したと述べていますが、聖書の世界でその役割を担ったのは、おそらくバプテスマのヨハネでしょう。
もっと普遍的な、人類史的に捉えれば、そういう観方もあるのでしょう。
勿論、このことはあくまで大まかな対照的に映る傾向を記したまでで、両者は似通った運命を辿らされていくといういうことも忘れてはなりません。
例えばブッダの解脱には自己の無化から形なき命~ダンマが顕わになり、やがてそれがブッダの内面から現実世界に出て行く~転法輪~ことが示され、キリストの十字架の刑に着かれたことは、それ自体が自己の無化の象徴であり、そのことが来るべき聖霊降臨の道~聖霊の現実世界への転出~を開示したのです。
私はこのダンマと聖霊には同質のものでありながら、前者の微妙な感じ、後者のより自明的、力動的という違いが有るように感じています。
これがブッダとキリストの言動の違いに顕れているのではないでしょうか…
いずれにせよ、ブッダ、キリストは我々に微妙な事、自明な事…出ては引っ込み、引っ込んでは、出てくる、という事を通じて”無いこと””有ること””無即有”の消息を表裏一体のように伝えていると思われます。



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