”スピから卒業しましょう!”というブロガーも居られますが、私はつくづく思います。
興味本位とか趣味といったレベルならいざ知らず、そこに一歩踏み混んでしまい、その空気に魅了され、そして”どうも入り込んでしまったようだ!”と感じ出したら、多分卒業出来なくなるでしょう。ましてそこで裏側を垣間見てしまうような事態になったら…
卒業しようなどと思う事の方がどうかしてます。これは言うまでも無いですが、スピ屋とか宗教屋などから卒業するという事とは、まるっきり違う事を言っていますよ。
スピなどという大雑把な括りで語るのもどうか、とは思いますが、”この道”は入り口は有っても、出口は無いのです!
何故出る事、辞める事が困難なのか?…霊界のポリスマンに捉えられてしまうから?…まさか!
もう、この味を知ってしまうと…そうです。これが肝心なのです。この味…
この味を知るものは、他の誰かでは無い、あなたしか居ないのです!
他のものにそそのかされた、とか無理強いさせられたからといって、この味を知ることにはなりません。
あるいは、霊的な何かが介入したーこれはきわめて重要なファクターには違いないでしょうけどもーといっても、そうなるとは限りません。
介入という事でも、何度も触れている通り、私が”霊的な手がかかる”と表現している事態になったら、もはや、逃れる道は無い…自分の運命を受け入れるしかありません。
そこで、”これでもか!”と知らされるのです!…この味を!
この味を知るということは、どこまでも自分自身の障りのない自由な深い意味での意志決定無しには起こり得ないのです。
私はしばしば”上よりの力に捉えられる”などと言いますが、それは自分自身の”同意”というものが大前提なのです。もっともそれは日常ではほとんど意識されることはないものですが…
この辺が逆説的なのですが、その同意というものは、”もう何がどうなっても構わない”というある面自己放棄に向かわされるのです。
これは全心全霊的信頼といったものがそうさせるのです。
この信頼というものは、それに預かるには事前に持つべき、準備すべき、いわば必須条件のようなものでは全くありません。
私は、そんなものを心に養うべく修養したことなど絶えてありません。
その場で自然に生まれるか、与えられるものです。その同意が先か、どうかはよく分からないですが…ほとんど一つのものでしょう。
あなたはこうならぬ前なら、この道から卒業出来ます!
いいや、違う!…今まで書いたように、ホントはそもそも”この道”に入信などしてないのです。知人に誘われて、どっかの宗教に入信したとか言われることとは別の話で…
ある信者の人はある先生やある教え、ある神様については語っても、”私自身の神様”については語りません。
そういうものは、得体の知れない霊ぐらいにしか思ってないのかもしれません。
こういう人は私の神様は勿論のこと、自分自身も信頼していないし、愛してもいません。
何となく、それっぽい感じがしてきても”一体、神なのか、ドエライ悪魔なのか、自分の思いの影なのか…”と、ずっと入口の外でウロウロしているだけです。で結局…捕まったらヤバイから逃げよう!(笑)
そして、この道に踏み入れる機会は…多分無いだろう…(笑)(奇跡を祈るっきゃありません!)
こういう信頼というもの無しに、この道に入信することも、この味を知ることも有りません。
ずっと抽象的な神を他人事のように信じ続けるか、宗旨替えするか、バカらしくなって卒業するかするでしょう。
自分を信頼しないで、人生を他人に丸投げしてたら”信じた私がバカだった”とか”あの先生に騙された”とか悔やむことになるだけです。(ホントの後悔は別にある?)
これから益々、くっきりとこの二つの道は分かれてくるでしょう。
どの道を歩むかは、全くあなた自身の問題です。
”信じましょう!”とか”辞めましょう!”とか人を扇動するような言葉なんかに左右されてはなりません。
(”道は一つしかないんだ”と巧妙に誰かが誘導しているようですが…)
興味本位とか趣味といったレベルならいざ知らず、そこに一歩踏み混んでしまい、その空気に魅了され、そして”どうも入り込んでしまったようだ!”と感じ出したら、多分卒業出来なくなるでしょう。ましてそこで裏側を垣間見てしまうような事態になったら…
卒業しようなどと思う事の方がどうかしてます。これは言うまでも無いですが、スピ屋とか宗教屋などから卒業するという事とは、まるっきり違う事を言っていますよ。
スピなどという大雑把な括りで語るのもどうか、とは思いますが、”この道”は入り口は有っても、出口は無いのです!
何故出る事、辞める事が困難なのか?…霊界のポリスマンに捉えられてしまうから?…まさか!
もう、この味を知ってしまうと…そうです。これが肝心なのです。この味…
この味を知るものは、他の誰かでは無い、あなたしか居ないのです!
他のものにそそのかされた、とか無理強いさせられたからといって、この味を知ることにはなりません。
あるいは、霊的な何かが介入したーこれはきわめて重要なファクターには違いないでしょうけどもーといっても、そうなるとは限りません。
介入という事でも、何度も触れている通り、私が”霊的な手がかかる”と表現している事態になったら、もはや、逃れる道は無い…自分の運命を受け入れるしかありません。
そこで、”これでもか!”と知らされるのです!…この味を!
この味を知るということは、どこまでも自分自身の障りのない自由な深い意味での意志決定無しには起こり得ないのです。
私はしばしば”上よりの力に捉えられる”などと言いますが、それは自分自身の”同意”というものが大前提なのです。もっともそれは日常ではほとんど意識されることはないものですが…
この辺が逆説的なのですが、その同意というものは、”もう何がどうなっても構わない”というある面自己放棄に向かわされるのです。
これは全心全霊的信頼といったものがそうさせるのです。
この信頼というものは、それに預かるには事前に持つべき、準備すべき、いわば必須条件のようなものでは全くありません。
私は、そんなものを心に養うべく修養したことなど絶えてありません。
その場で自然に生まれるか、与えられるものです。その同意が先か、どうかはよく分からないですが…ほとんど一つのものでしょう。
あなたはこうならぬ前なら、この道から卒業出来ます!
いいや、違う!…今まで書いたように、ホントはそもそも”この道”に入信などしてないのです。知人に誘われて、どっかの宗教に入信したとか言われることとは別の話で…
ある信者の人はある先生やある教え、ある神様については語っても、”私自身の神様”については語りません。
そういうものは、得体の知れない霊ぐらいにしか思ってないのかもしれません。
こういう人は私の神様は勿論のこと、自分自身も信頼していないし、愛してもいません。
何となく、それっぽい感じがしてきても”一体、神なのか、ドエライ悪魔なのか、自分の思いの影なのか…”と、ずっと入口の外でウロウロしているだけです。で結局…捕まったらヤバイから逃げよう!(笑)
そして、この道に踏み入れる機会は…多分無いだろう…(笑)(奇跡を祈るっきゃありません!)
こういう信頼というもの無しに、この道に入信することも、この味を知ることも有りません。
ずっと抽象的な神を他人事のように信じ続けるか、宗旨替えするか、バカらしくなって卒業するかするでしょう。
自分を信頼しないで、人生を他人に丸投げしてたら”信じた私がバカだった”とか”あの先生に騙された”とか悔やむことになるだけです。(ホントの後悔は別にある?)
これから益々、くっきりとこの二つの道は分かれてくるでしょう。
どの道を歩むかは、全くあなた自身の問題です。
”信じましょう!”とか”辞めましょう!”とか人を扇動するような言葉なんかに左右されてはなりません。
(”道は一つしかないんだ”と巧妙に誰かが誘導しているようですが…)