人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

守護霊と真我

2016-07-06 00:04:29 | ガイダンス
心霊学などで守護霊と言われている霊的存在とされるものがありますね。
私は霊能者でないので、見たことも無いし、声を聞いたことも有りません。
何時も触れていますが、私が現臨(やたらとこういう表現をしますが、根本的に曰く言い難いもので、リアルに意識にアリアリと臨むあるもののことを、こう言っているのです)に捉えられるとか、”声なき声”を聞いたとか言っているのは、そういう事とは全く違う事を言っています。
これは意識状態の変容を伴っているという事であり、この現臨が臨んだ時、通常では見失っている自分自身を取り戻す、という感覚を覚えます。
つまり自分自身と現臨とは別在しているものでは無いのです。
こういう次第なので、守護霊というものの実体もよく分からず、それが現臨と同じものなのかどうかも分かりません。
それでも、”守護霊の実在を信じてないのか?”、と言われば、”信じている”、と答えますが…
以下、こうしたことを含んだ上で書いてみます。決まった視点が有る訳じゃないという事です。
多くの人の守護霊のイメージというのは文字通り、自分を守ってくれる霊的存在といったものだと思いますが、私も経験として”ああ、あの時も、この時も守られているんだなあ…”と実感したこともあり、そういう観方も否定しません。
ただ、私は心霊的界隈であまり語られない事で、見落としてならない面もある、という事を指摘したいと思います。
それは、”守護霊というのは、自分の本心、真我の目覚めのガイダンスなのだ”ということです。
このことは守護霊、守護神のマスター、五井昌久先生も常々言っていたことです。
五井先生は、「守護霊、守護神の導き無しに誰も悟れないのです」とか、又守護神は直霊(真我、アートマン的なものの神道的表現〉の分かれであるとも述べています。”守護霊は悟った先祖の霊である”とされていますが、私は血統とは限らず、霊統ともいうべきものからも来ていると感じています。(本心の目覚めに関わるのは後者の方ではないでしょうか?)
守護霊云々という言い方は如何にも心霊的な事と結びついており、この表現を嫌う人も多いでしょう。(実は私も)
けれど、古今東西の聖賢、自称?他称の覚者、どういう訳でか目覚めちゃった平凡な人…もう、ほとんどの場合この見えざる導き無しには、そんなことに預かる、という事は無いのではありませんか?
五井先生が”守護霊…”と決まったフレーズを使ったのは、多分自身が心霊学と縁が深かったことと、大衆にイメージが伝わり易かったからでしょう。
(現臨というのはキリスト教神秘主義でたまに使われているのを借用しているのです。私的にピッタリするので…大衆的にはスルーだろうけど…)
見えざる導きから自分自身に目覚めて行くにつれ、守護霊なるものの認識も徐々に変わってくるだろう、と思われます。

38年前の私的ルネッサンスの最中、私は自由な精神的放浪者(よく言えば神秘的アナーキスト?)のようでありましたが、一面五井先生のシンパも続けていました。(信者になるには、あまりにもイイカゲン過ぎました)
定期的に市川の白光の道場に通ってはいましたが、熱心に白光会の指導どおりの修行、祈りをやっていた訳ではありません。祈りというのはほとんど自己流で、どこで覚えたか定かではないですが、”御心のままにお導き下さい…”という祈りの形というより、”心持ち”を大事にしていたのです。そうしていると(といっても何かの行為のことではありませんが…)いつの間にか、暖かい、有難い気持ちにさせられるので、自然に身に覚えたのでしょう。
この時は、心霊的というか、エーテル的なものにも馴染んでいましたので、”これが守護霊の働きというものか!”と感じていたものです。
こういうものが、このころ芽生え、ずっと私の形なき祈りと瞑想の基調となっているのです。
ある時白光の道場で、祈りとお浄めを受けていた時、こんな我流の祈りをしていたに関わらず、終わってから講師の先生から突然「おめでとうございます!…あなたは大変守られています!」と興奮気味に言われたのでビックリした事が有りました。
私はそれで”守護霊というものは、一人一人にとってのものであって、ある教団との関わりの有る無しとは関係ないもの…”と理解するようになりました。
このころには微睡の中でも”見えざる導師”に捉えられていたようです。
そして、真我の光もぼんやりと映じられていたのです…。









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