昭和53年春、いよいよ私のルネッサンスの昂揚感が高まりつつあった頃、どういう経緯だったか、イレギュラーな形のある秘教的、神道霊学的文化サークルが都内を主な活動拠点にして発足していました。この情報は例によって白光のK氏からでしたが、自称宇宙考古学者のK氏もその中心的メンバーの一人でした。
その名称はというと…”新しい文明の流れ”だったか、”新しい文明を造る会”だったか…主催者のU氏に確認したところ、「…どっちでもいいじゃあないか…」という事でした。(笑)
さらに、「このサークルは一体何をめざし、何をやろうとしているのですか?」と訊いたら…「それはねえ…分からないのだよ…まあ、かむながら、流れに任す、という事でいいんじゃないかな…」と、U氏はすました顔で宣わっていました。
して、それを聞いた私は…”これは全くもって、今のこの私の内面の状態をいわく言い難く、象徴しているのではないだろうか!” と、感じ入ったものです(笑)
”何の因果だか分からないが、突如降ってわいたような縁…これは自分の中に引き付け合うものが無ければ、そもそもここにはいないハズ…甘んじて、その流れに委ねてみようではないか…”私はそうして定期的にそのエーテル状のサークルに参加するようになったのです。
ただ、当初は本当に混沌としていて、サイ科学、シュタイナー的超自然学、K先生の独壇場の竹ノ内超古代秘史…と、頭の交通整理が着かなくなりそうでした。
それも、夏ごろにはある見えざる?機軸に向かって動き始めました。その契機は、U氏がほとんど個人的なレベルの大本系秘教団体?平安OO教と関わるようになってからでした。その教祖?さんは、大本といっても反出口王仁三郎派というか、非主流派の急先鋒だった福島久子に傾倒していて、その”もう一つ”の曰くつきのお筆先などを私財を投げ打って世に出している人でした。
私にはこの少し前から大本教、とりわけ出口王仁三郎への関心がもたげていて、主流、非主流といった枠組みには全く捉われてはいなかったのですが、何しろこのサークルは私の内面と連動するように流れ始めたのです。
つまり、新しい文明を造る、その方向性は、”埋もれた根源神を世に出すこと”、という大本に伝わる理念と結びつくようになったのです。
そしてこの流れから、初秋ぐらいから空想と現実が交錯したような、プロジェクトが持ち上がりました。
これは如何にも、このサークルに隠然と浸透していた竹ノ内超古代史と大本的神の仕組みのリンクの模様を物語るものと言えます。
それは竹ノ内古文献で、世界の中心(!)に比定されていた飛騨の位山の傍らにある、古代遺跡通称”祭壇石”が斜めに傾いて横たわってあるものを、水平に戻そうという、とても公的には発表出来そうにない計画なのでした。名付けて”位山水平プロジェクト”!
10月にその手始めにその祭壇石の前でお祭り、神業をやろうという事になり、私は”何となく、行かなきゃならないような気がして来て…”それに参加したのでした。
これは私には忘れ難い想い出です。始めて行った位山は曰く通り、神々しい深遠な雰囲気に佇み、その時の霧がかった天候が一層神秘さをたたえ、祭礼が終わった途端、霧が晴れて雲間から太陽と月が同時に顕れるという奇瑞もありました。
道中、もう一人のKさんという謎の人物と親しくしたことが印象に残っています。この人はかつて洗脳集団で有名なT教会の指導原理を草案したそうで、その時はとっくにそこから手を引き、私には初耳だった超古代哲理”相似象”(これは驚愕!…しかし当時の私にはチンプンカンプン)の研究などをしていました。何でも昔の自分の所業の罪滅ぼしのために各地で、神業をしているのだとか…数年後、信州の山に入ったきり消息を絶った、と聞いています。
ところで、プロジェクトのその後の進行はどうなったのか?…実は聞いてません。(とん挫するのが普通だと思います)
というのも、私はこのイベントの後、しばらくしてこのサークルから遠ざかってしまったのです。
一番の理由は、U氏がこともあろうにあのM教団と癒着するようになったからです。
同じころU氏は、宇宙考古学者K氏とも上手くいかなくなりました。
そして私はその年の暮れには、エーテル漂うオカルト的潮流からは一切手を引くようになりました。
何か一度に様々な要因が起こり、そのようにし向けられているように感じました。
私は又、何の因果か、こうした流れにも委ねることにしたのです。
そして…私の意識の深部に何が催されてきているのか、どういう転機が待っているのか…まだ微睡の中にあり、光を探し求めている最中なのでした…。
その名称はというと…”新しい文明の流れ”だったか、”新しい文明を造る会”だったか…主催者のU氏に確認したところ、「…どっちでもいいじゃあないか…」という事でした。(笑)
さらに、「このサークルは一体何をめざし、何をやろうとしているのですか?」と訊いたら…「それはねえ…分からないのだよ…まあ、かむながら、流れに任す、という事でいいんじゃないかな…」と、U氏はすました顔で宣わっていました。
して、それを聞いた私は…”これは全くもって、今のこの私の内面の状態をいわく言い難く、象徴しているのではないだろうか!” と、感じ入ったものです(笑)
”何の因果だか分からないが、突如降ってわいたような縁…これは自分の中に引き付け合うものが無ければ、そもそもここにはいないハズ…甘んじて、その流れに委ねてみようではないか…”私はそうして定期的にそのエーテル状のサークルに参加するようになったのです。
ただ、当初は本当に混沌としていて、サイ科学、シュタイナー的超自然学、K先生の独壇場の竹ノ内超古代秘史…と、頭の交通整理が着かなくなりそうでした。
それも、夏ごろにはある見えざる?機軸に向かって動き始めました。その契機は、U氏がほとんど個人的なレベルの大本系秘教団体?平安OO教と関わるようになってからでした。その教祖?さんは、大本といっても反出口王仁三郎派というか、非主流派の急先鋒だった福島久子に傾倒していて、その”もう一つ”の曰くつきのお筆先などを私財を投げ打って世に出している人でした。
私にはこの少し前から大本教、とりわけ出口王仁三郎への関心がもたげていて、主流、非主流といった枠組みには全く捉われてはいなかったのですが、何しろこのサークルは私の内面と連動するように流れ始めたのです。
つまり、新しい文明を造る、その方向性は、”埋もれた根源神を世に出すこと”、という大本に伝わる理念と結びつくようになったのです。
そしてこの流れから、初秋ぐらいから空想と現実が交錯したような、プロジェクトが持ち上がりました。
これは如何にも、このサークルに隠然と浸透していた竹ノ内超古代史と大本的神の仕組みのリンクの模様を物語るものと言えます。
それは竹ノ内古文献で、世界の中心(!)に比定されていた飛騨の位山の傍らにある、古代遺跡通称”祭壇石”が斜めに傾いて横たわってあるものを、水平に戻そうという、とても公的には発表出来そうにない計画なのでした。名付けて”位山水平プロジェクト”!
10月にその手始めにその祭壇石の前でお祭り、神業をやろうという事になり、私は”何となく、行かなきゃならないような気がして来て…”それに参加したのでした。
これは私には忘れ難い想い出です。始めて行った位山は曰く通り、神々しい深遠な雰囲気に佇み、その時の霧がかった天候が一層神秘さをたたえ、祭礼が終わった途端、霧が晴れて雲間から太陽と月が同時に顕れるという奇瑞もありました。
道中、もう一人のKさんという謎の人物と親しくしたことが印象に残っています。この人はかつて洗脳集団で有名なT教会の指導原理を草案したそうで、その時はとっくにそこから手を引き、私には初耳だった超古代哲理”相似象”(これは驚愕!…しかし当時の私にはチンプンカンプン)の研究などをしていました。何でも昔の自分の所業の罪滅ぼしのために各地で、神業をしているのだとか…数年後、信州の山に入ったきり消息を絶った、と聞いています。
ところで、プロジェクトのその後の進行はどうなったのか?…実は聞いてません。(とん挫するのが普通だと思います)
というのも、私はこのイベントの後、しばらくしてこのサークルから遠ざかってしまったのです。
一番の理由は、U氏がこともあろうにあのM教団と癒着するようになったからです。
同じころU氏は、宇宙考古学者K氏とも上手くいかなくなりました。
そして私はその年の暮れには、エーテル漂うオカルト的潮流からは一切手を引くようになりました。
何か一度に様々な要因が起こり、そのようにし向けられているように感じました。
私は又、何の因果か、こうした流れにも委ねることにしたのです。
そして…私の意識の深部に何が催されてきているのか、どういう転機が待っているのか…まだ微睡の中にあり、光を探し求めている最中なのでした…。