スピリチュアルと呼ばれる界隈には、ハッキリしたカテゴリー認識がなされている訳でも無く、ノンデュアリティというのもそう呼ばれるし、全く畑が違うとも思われる心霊派?ともいうべき人たちもそう呼ばれたりしています。私はこの分野では真剣にのめり込んだことは無いですが、さりとて全く関心が無いという訳でもありません。
ある種の高尚そうな?学的?な人たちのように、全否定するつもりなどもありません。
全肯定も勿論しませんが…
しか―し、それにしても…何と私は今までこうした人間のように思われてきたことか!
話の端で”霊界というところはねえ…”と、なんかの本で読んだことを言っただけで、心霊主義者にされてしまうのです。
先日、仕事仲間から「あなたの気配が突然消えた!」と言われましたが、私はやはりこの世の住人でないのかも分かりません…。
心霊的な関心でよく取り沙汰される事として”死んだらどうなる?”、”死語の世界は如何?”というのはお馴染みですね。
所謂霊能的な教師からは、”人間は肉体は死んでも魂は生き続ける訳で…”といったお馴染みのフレーズでまるで決まった事のように語られるのが普通です。”とにかく信じなさい!”という口調で…
根拠もないにも関わらず、なんで決めつけちゃうんでしょうかね?…そのように言い張る人は自分があの世を見て、分かっているから?…
大部分の分からない人にとっては、死後の世界を認める、受け入れるという事は、そうした言説を信じるしかなさそうですね。
ある種の宗教でもこうしたことを教えとして伝えている場合も多く、上述したようなやり取りは顕著にみられるものです。
要するに他人が言ってることを鵜呑みにして依存しているのです。
そして、なにより大前提になっていることは、そう言う方も信じる方もこの世に生きていて、そういうやり取りをしているという事です。
つまり”ホントのことは死んでみなきゃわからない!”、”死後のことは死者をして語らしめよ!”ということです。(これが、私の否定も肯定もしないというスタンスの拠り所です)
こうしたことが、語られる背景には、死ぬことに対する不安というものがあるのでしょう。
死後の人間個性の存続如何という事も、それと関連してるようです。
これは死後の世界や霊界の存在の確証とは結びつかない事ですが、私は何度か”もう、このまま死んでもいい…ここで果ててしまっても構わない…”と実感したことはあります。
これはあの現臨に捉えられた時なのですが、別に異世界に移行したという事ではありません。
ただ、”死んでもいい”と強烈に感じさせているものが有るのです。
永遠の生命?…そういう使い慣れた表現も出来るかも知れません。
ただ、それはこの私が死んでも尚永遠に生き続けるという事とは少しく違う…永遠に生き通しのものに連なっている…といったものです。
個性について言うと、それは又有るとも無いとも言えるものじゃないと感じます。
日常的感覚で感じられるものとは、全く違うものであるし、むしろ個性はそうなった時アリアリと実感されるものとも言えます。
まあ、こういう事も私の主観に基づいて言ってる訳でして、別に信じてもらう必要も無く、各自が確かめるべき問題です。
死んだらどうなる、こうなる、死後の世界の有無などの問題は、このように本当は死にいかに向き合うか…というところに潜んでいるのではありませんか?
不安でたまらない人にここで朗報?を一つ…”死後はこうなっている!”という断定口調も決めつけなら、”死んだら、ハイ、何もかもオシマイ!”と言うのも決めつけですよね…生きているうちに死を恐れる必要も無いのかも知れません。
私などは大分周囲の”死んだら、何にも無くなるんだ!”という定説に刷り込まされていたようです。
結局死んでみなきゃ、どうだか分かりゃしないのです!
何時までも”信じる信仰”にすがりたい気持ちも分からなくはないが、いつかは他人事でない自分自身のこととして向き合わなければならない時も来るでしょう。どういう事でも他人事である限り、問題はフタ閉めされるばかりです。
もっともいくら向き合っても分からないかも知れません。これは実は生きる事の意味というものと裏表みたいなものですね…
自分の頭では分からなくとも、…夕暮れ時とか、真っ赤に染めゆく空を見ているうち、身が頷いてしまう事も有るかも知れませんよ…。
(私はずっと夕日と意識の昂揚との関係について思案しているのですが、実際それに見入っているとどうでもよくなります。昂揚してきて…
ま、これも朝、昂揚する人にはどうでもいいことですが…)
ある種の高尚そうな?学的?な人たちのように、全否定するつもりなどもありません。
全肯定も勿論しませんが…
しか―し、それにしても…何と私は今までこうした人間のように思われてきたことか!
話の端で”霊界というところはねえ…”と、なんかの本で読んだことを言っただけで、心霊主義者にされてしまうのです。
先日、仕事仲間から「あなたの気配が突然消えた!」と言われましたが、私はやはりこの世の住人でないのかも分かりません…。
心霊的な関心でよく取り沙汰される事として”死んだらどうなる?”、”死語の世界は如何?”というのはお馴染みですね。
所謂霊能的な教師からは、”人間は肉体は死んでも魂は生き続ける訳で…”といったお馴染みのフレーズでまるで決まった事のように語られるのが普通です。”とにかく信じなさい!”という口調で…
根拠もないにも関わらず、なんで決めつけちゃうんでしょうかね?…そのように言い張る人は自分があの世を見て、分かっているから?…
大部分の分からない人にとっては、死後の世界を認める、受け入れるという事は、そうした言説を信じるしかなさそうですね。
ある種の宗教でもこうしたことを教えとして伝えている場合も多く、上述したようなやり取りは顕著にみられるものです。
要するに他人が言ってることを鵜呑みにして依存しているのです。
そして、なにより大前提になっていることは、そう言う方も信じる方もこの世に生きていて、そういうやり取りをしているという事です。
つまり”ホントのことは死んでみなきゃわからない!”、”死後のことは死者をして語らしめよ!”ということです。(これが、私の否定も肯定もしないというスタンスの拠り所です)
こうしたことが、語られる背景には、死ぬことに対する不安というものがあるのでしょう。
死後の人間個性の存続如何という事も、それと関連してるようです。
これは死後の世界や霊界の存在の確証とは結びつかない事ですが、私は何度か”もう、このまま死んでもいい…ここで果ててしまっても構わない…”と実感したことはあります。
これはあの現臨に捉えられた時なのですが、別に異世界に移行したという事ではありません。
ただ、”死んでもいい”と強烈に感じさせているものが有るのです。
永遠の生命?…そういう使い慣れた表現も出来るかも知れません。
ただ、それはこの私が死んでも尚永遠に生き続けるという事とは少しく違う…永遠に生き通しのものに連なっている…といったものです。
個性について言うと、それは又有るとも無いとも言えるものじゃないと感じます。
日常的感覚で感じられるものとは、全く違うものであるし、むしろ個性はそうなった時アリアリと実感されるものとも言えます。
まあ、こういう事も私の主観に基づいて言ってる訳でして、別に信じてもらう必要も無く、各自が確かめるべき問題です。
死んだらどうなる、こうなる、死後の世界の有無などの問題は、このように本当は死にいかに向き合うか…というところに潜んでいるのではありませんか?
不安でたまらない人にここで朗報?を一つ…”死後はこうなっている!”という断定口調も決めつけなら、”死んだら、ハイ、何もかもオシマイ!”と言うのも決めつけですよね…生きているうちに死を恐れる必要も無いのかも知れません。
私などは大分周囲の”死んだら、何にも無くなるんだ!”という定説に刷り込まされていたようです。
結局死んでみなきゃ、どうだか分かりゃしないのです!
何時までも”信じる信仰”にすがりたい気持ちも分からなくはないが、いつかは他人事でない自分自身のこととして向き合わなければならない時も来るでしょう。どういう事でも他人事である限り、問題はフタ閉めされるばかりです。
もっともいくら向き合っても分からないかも知れません。これは実は生きる事の意味というものと裏表みたいなものですね…
自分の頭では分からなくとも、…夕暮れ時とか、真っ赤に染めゆく空を見ているうち、身が頷いてしまう事も有るかも知れませんよ…。
(私はずっと夕日と意識の昂揚との関係について思案しているのですが、実際それに見入っているとどうでもよくなります。昂揚してきて…
ま、これも朝、昂揚する人にはどうでもいいことですが…)