人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

御心のままに…

2016-07-26 13:55:52 | 祈りと瞑想
相模原で未曽有の殺人事件が起きました。
常人の意識状態では行われ得ないような凄惨な犯行ですね。
ある日、なんてことない人が突然意識が目覚めてしまった、という事が頻繁に起きている一方で、こうした異常な事件も増加してきています。
何か人類全体の当たり前の思考、思慮、考えるという事、良きにつけ悪しきにつけ、我々が日常からトンで行かぬように規制していたものが薄れてきているようにも感じられます。
どちらにせよ、人間は今まで思われていたものでは無くなってきているようです。
これは、心身のバランスが崩れやすい状況になって来ているとも言えるでしょう。
やや陰りも見せ始めたとはいえ、”私はいない”、全体だけがある”といったただ、”そういう風に感じれられる”に過ぎない?ことを短絡的に誇張した、非二元の教えを真にうけて意識障害のような事に陥ってしまう事も無いとも限りません。
何度か触れているように、私も思考が薄れ、意識も飛びそうになった事態に見舞われた事が有ります。
確かにそれまで悩んでいたことも無くなるように感じ、自分と世界との境界も薄れて”事は起きているだけ”と言う感じにもなります。
だけど、それだけでしたら、意識の変容とか魂の目覚めといったこととはまるっきり違います。
そこにはそもそもの大前提が抜け落ちています。
歓喜といったものどころか、”自分が自分でなくなっていく、奈落の底のような方へと消えて行ってしまいそうになる…”という、その恐怖を目の当たりにするのです!
”そういう恐怖を感じている自分も無いのです”などと平然と言っている人は多分そうなったことが無いのでしょう。
アンバランスな事態、それは足場も、手すりも無いビルの壁に置き去りにされているようなものです。
消え去りそうな意識の中で、とてもキケンな状態だという認識はあり、”ただ私は何もすることは出来ない、神様、仏様、なんだっていい…助けて下さい…”と祈るしかないのです。
そして私はその恩恵あってか、苦境から脱することが出来たのですが、私にはどこかに”私の神は絶対にキケンな目にはあわせない!”という信念もありました。
それは多分、あのエーテル的空気が濃厚だった、昭和53年夏頃芽生えたある種の祈りから来ていたと思います。決まった形、決まった祈り言葉が有る訳でも無く、自己流に過ぎないものでしたが…
その心根には”御心のままにお導き下さい”というものがありました。それはアーメンであり、南無…であり、”かむながらたまちはえませ”であります。この基調の無い祈りというのは全て枝と観るべきでしょう。
これにより私はあのエーテル的雰囲気にのみ込まれることも、流されることも無かったのだと思います。
分かったような事言う人は、”自分と神は一つだし、全体しかないんだから祈りなど必要ない”などと宣うかも知れません。けれど、それもこの世で個人としてアレコレ考えていて、普通に生きている人がそう言っているまでです。
当たり前に生きている人間が突然、”ご託宣”を始めるわけが無いのです!
こういう言説はすべて”そうなってみなきゃ分からない”事であり、最初からそうなって生きている人など居ないのです!
”果たして自分と神とは一つなのか?”それは神的なもの、現臨に触れて初めて分かることです。分かり方というのは人それぞれでしょうが…
一元論とか二元論というのは所詮、この世で生きてる人間の理屈でしかありません。
そうしたものが臨むこと、意識の変容、覚醒…それは自分の一存でどうなるというものじゃありません。
すべて”御心のまま…”なのです。御心無しに、導きというもの無しには起き得ないでしょう。
そして”御心のままに”というものが心根に根付いたなら…感じ方はそれぞれでしょうが、人生はこれまでと違ったものに感じてきます。
自分で言うのもおかしいですが、この言葉に自分で酔いしれて来そうになります。
だって、それが意識の変容というものでしょう…。自分でどうにもならない突出した体験というのも、御心のままにあることと離れては無く、そういうものが有ろうと無かろうと、御心のままにあることで人生は幸福なのです。
あの暑かった夏、世界がモヤっていたように見えながらも、一点生き生きと、アリアリと喜びに包まれていると感じさせていたのは間違いなくコレだったのです…。



















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