人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ハタラキと祈り

2016-07-13 16:04:44 | 現臨、ハタラキ
愛、意識、ハタラキ…何度も触れているこのブログの基調的なワードです。
このうち、ハタラキというのは、働き者の皆さん?にも馴染みの無いワードでしょうが、意味は分からずともこれ無しには、誰も生きちゃおれない、そもそもの命と直結したものです。
気、聖霊、恩寵、ナントカ・パワー…全部がこのものの側面を言い表しているようですが、各々の言葉の響きには、あるイメージが付きまとうような面も感じられるので、”生きたもの、動くもの”という通念を感じやすい、という事でそういっているまでです。特別な意味合いなど何もありません。
これほど、重要なもので、流通普遍的なものであるにも関わらず、巷には決まった言葉が無いのです!…これはホントにどうかしてる!…陰謀か?…この辺に転倒した世の中の現状が表れているようです。
今のスピ界隈には、”覚醒して、すべてが一つになりました…”、”最初から悟っていたのです…”といった後出しじゃんけんどころでない、”勝ちゃいましたじゃんけん”まがいの言葉や、ユーザーに対しては、それに預かるには”こだわりを捨てればいいんです…”とか、”全てを任せればいいんです…”と出来りゃ苦労しないような、親身の無い言葉ばかりが飛び交っています。
つまりは、このもの無くしてなりようの無い、このハタラキの消息がどっかへ飛んじゃっているのですね。
だから”平凡な人間が覚者になった、とかあなたも覚者になれる…”なんて話が後を絶たないのです。
ただ、ハタラくものがあった、ということであって、どこまでもただの人はただの人に過ぎないのです!
この事を疎かにしているのはただのおバカなのです!
とはいえ、これがハタラく時、諸々の物理的順序”何が、どうなって、こうなった…”という成り行きが省かれるように感じる事の多いのも事実です。
それでも、”これがハタラいている、このものが有る”という事実に変わりはありません。
これはなんてことは無い、現在の物理科学の範疇を超えている、というだけの話です。

親身が無いということでしたら、私も例えばハタラキを感じられる方法などについてはあまり触れてません。
これは、”それを感じられない人間など生きちゃいない!”と言ったらそれまでなのですが、”もっと生き生きと、深く感じるには…”という事になると…私は敢えて言えば”祈ること”だとしか言いようがありません!
しかし、祈りというのは、~のための方法の類といった意味じゃありません。
行、形としての祈りというよりも、祈り心と言ってもいいのです。
祈り心の無いところに、ハタラキの息吹は無い…祈りは、ハタラキの現前への”へりくだり”です。
これは倫理の問題じゃありません。”そうしなければいけない”ものじゃなく、知られざる物理法則みたいなものです。
生けるハタラキに預かるという事は表側の自分が引っ込んで、裏側の現臨が表に顕わになるという事に他ならないからです。
祈りは又、意識の変容に伴う、心身のバランス感覚を失ったりするなどの危険な状態に対する強力な防御ともなるものです。(この事を甘く見ている向きが何と多いことでしょう! 思い上がりこそが危険の兆候です)
こういう事というのは、瞑想や祈りのやり方といった、形だけの方法を覚えてもしょうがないものです。
やり方というよりも、ハタラキを覚えた時、自ずと祈り心が芽生えてくるものです。
それはこちら側とあちら側との愛の相関と言ってもいいでしょう。
私がそういうものに触れようとしないのも、こういう理由からでもあるのです。
生けるハタラキは捉えようとすれば遠退き、放つことで近づく…(タオですか…)
祈りとは、この逆説的方法論なのです。










コメント
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