人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私の原点

2018-10-01 17:03:25 | 回想
神秘体験とか覚醒、一瞥とか言われているものは、かつては宗教絡みでその道を勤しんでいる者が与るものと思われていたのですが、昨今では何ら特別なことをしていない人が、思いがけずそういうことになってしまうこともしばしば聞いているとおりです。
私がこのブログを始めた当初、さも"この人生の裏側に踏み入れるってーのは、そりゃ素晴らしいんですよ~"とそれを煽るようなことを書いてしまったりして...今でも反省しております。
その後もネットなどを通じて意識障害などを起こして、普通に生活することも困難になるという事例を知るにつれ、そこには手放しで受け入れられないものも感じてきます。
そこには何か重大なものが蔑ろにされているのではないだろうか?
これはその後何度も触れてきていることなのですけど、少なくとも自分にとってはどういう意味合いを持っているのか、改めて書いてみたいと思います。

この問題について、先ず私は自分自身の原点に立ち返ってみようと思い至りました。
昭和53年の暮れ、それまでずっと私は宗教的なことに関心を持ち続けていたのですが、"教えを信じていたらいい"式のただの観念事だけでは内的な満足を満たすことが出来なくなっていました。
そんな折、思いがけない形で"そう信じている"どころでない事態に見舞われてしまいました。
ウッカリ近づいたカルト宗教が執拗に私をトリコにしようと接触してくるのに恐怖を覚え、"神、キリスト、守護霊、五井先生(当時はそれまで崇拝しているに近かった五井先生から意識的に離れようとしていた)何でもいい、助けて下さいi"と、脇目も振らず必死に祈りこんだのです。
すると...突然、意識が飛びそうになり、もうその場で道路にへたれ込んでしまったのです。
カルト宗教への恐怖は消えましたが、別の恐怖に襲われました。"意識が無くなる、自分が無くなる..."
幸い、その場は数分で落ち着いたのですが、その後1ヶ月くらい、いつ何時それがやって来るのか分からない、その意識、自分が無くなる恐怖と戦うハメになってしまったのです。
これは私が五井先生と離れたバツなのか(従って守護の神霊のご加護も切れた?)とも思いましたが、ともかくも私はただの観念事でない、実体験の世界に足を踏み入れたのです。しかし、それは恐怖と混乱と共にあったという次第です。(もっとも、それ以前ありやかな実体験というほどでなくとも、微妙なある導きを受けているような感じを受けてはいましたが)
で、この自分が無くなることですが、私は勿論完全に消えてしまった訳ではありません。そうなったらここでこうして居られる訳が無いのです。(意識が、自分が消えてしまえば、全体も世界も宇宙も消えてしまうはずです。"私は自分が消える体験をした"という人も多分そうでしょう。何かしら今居る人は誰も完全には消えないのですi)
いつそうなるかは分からないけれど、ある取っ掛かりというのは何となく分かりました。
それはその恐怖の事態に"意識が向く...向ける...向いちゃう"という、自分の意志とは言えないこの微妙な意識の有り様にどうも起因しているらしいのです。その起こりがそういうものだけに、それを自分の意志で防ぐという手だてもおぼつかないのです。
もはや、どうしようもありません。しかし...このブログをずっと読まれている方なら気が付かれるでしょう。
そうですi その恐怖が臨んでくるものが、別のものに代わったのですi
落ち着いて、肝を据えて神的なものに祈ることによって...これは形ある自意識的な祈りというものでなく、実に意識が神的なものに"向く、向ける、向いちゃう"ということで導かれたのです。神か、キリストか、守護霊かは分からないけれど、この神的なハタラキこそは私の救世主です。
これで直接意識の覚醒に導かれた訳では無いですが、ともかくその生きたものを身に覚え、人生の裏側に踏み入れる端緒だったのは間違いありません。
あの恐怖体験は、ごく短い間の過渡的なものだったという印象なのですが、それも見えない導きのうちだったかもしれません。
その渦中にあった時から、"大丈夫だ、直に収まるから...私が居るから..."という声なき声を聞いていたからです。
この神的なものと共にあることが私の原点だったのです。
ま、ずっと知らずにそのように歩まされていたということになりますが...

コメント (7)
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