人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

悟りとは何か?

2018-10-05 12:08:37 | 覚醒
随分と改まったようなテーマですが、"悟りとは何か"も何も悟りとは程遠い私などが偉そうなこと言える道理など無いのです。
ただ、最近どうも元々その内実が曖昧なこの言葉を巡り、方々で言われていることから、大分観方、感じ方が錯綜しているように感じられてならないのです。
これはかつては文字通り"悟道に達した"とか、特別な人間(思われる)にしか与り知れないとされていたものが、フツーの人間にも身近な問題となり、検証もなされ始めたことを物語っているとも思われます。
古くから宗教、スピに関心をもった方なら誰しもが、漠然と悟りというもののイメージは抱いたことはあるでしょう。
悟りという言葉は仏教方面から来たものですが、所謂"宗教的回心"(覚醒とか一瞥という言葉もかつては一般的でなかった)と結びつけられていた面もあったと思います。(だから私のように"ついに私は悟ったi"と勘違いする人間も居るのです)
何にしろ悟りとは、宗教的世界で言い伝えられていたものだったのは確かなことと思います。
ということは、それは多く神仏への帰依ともつながりがあったということなのです。
これが最近のスピ界では"越権"してきて、極端な、決めつけたような非二元の教えが横行するようになったのです。
(中でもその最大の越権行為とは、"あなたは既に目覚めているのですよ、全体と一つなのですよ、探求はもう終わっているのですよ"と人それぞれの内的な道の在り方を無視した、"既に分かっているつもりの境地"に誘導してしまう物言いでしょう。これ程の一人一人の生に対する蹂躙は無いでしょう)
"私という個は無い"ということも"ある感じ"としては、あるのでしょうが、それが究極の真理のように説かれてしまうことで、不幸も幸福も感じない、生きる意欲も失せてきて、現実生活には適応出来ない生き方にもなりかねなくなる訳です。
故.エンライトさんなどが、"悟りの道は人間廃業の道である"と、その一人歩きした安直な非二元的悟りの道へ警鐘を鳴らしたことは実に意義があったと感じています。
しかし、一方では悟りとされている道のすべてがそういうものに赴いてしまうという、誤解を与えてしまった気来も無いではありません。
(前述のように、悟りというもの自体錯綜して語られるものなので、ここは"非二元的な道"という括りで語った方がいいように思います)
まず、どうして古来より様々な宗教や経典や聖人とされる人たちを通じて、悟りなるものが言い伝えられてきたかについて思いを致すに、人間が人間でなくなる道など今に至るまで、残っていようはずなど無いとは考えられないでしょうか?
それはより生きやすい、より幸福な生き方として示されて来たものではなかったでしょうか?
そしてそれは、欠かすことの出来ない根本的なものとして据えられるものではあれ、それのみがその道から切り離され、一人歩きしてしまうものではなかったのです。
悟りの道とは本来、帰依心とか敬虔さなどの素養を身に付けていないものには、開かれないものだったのです(宗教と関わらずとも元々身に付けている者は居ますが)。
この事が蔑ろにされた時、究極の悟りの境地らしきものを目指しての所謂"悟りゲーム"のようなものが横行するようになるのです。
その究極の悟りでは自己も無くなり、神も、恩寵も如何なるものも無くなってしまうらしい(全体も無くならないとオカシイのです)。しかし、究極に至った末、そう感じる自己もすべて無くなってしまうとは、究極のオチではないでしょうか?
究極の境地というのは、多分頭の中にしか無いでしょう。これらは、自分で悟れると思っているところから錯覚するのでしょう。
とはいえ、ご存じの通り、宗教はもう、胡散臭いものの代名詞のようにも成り下がり、その命たらしめていた神的なハタラキも廃れてしまった感もあり、私自身も"宗教的素養を身に付けろ!"などと言う義理もありません。
しかし、私の場合、何度も言うように、神的なものそのもの無しにはその道は開かれなかったことを強く感じざるを得ないのです。
だからそれは"自分が有るか、無いか"ということだけで、語られてしまうものでは無かった...むしろ強く感じたことは、そのもの無しに私は存在出来ないということだったのです。
だから、その境地に達したなどとは言えない訳で、しかも年がら年中狼狽えたり、取り乱したりで余計そんなのとは程遠いと感じている次第なのです。
結論、悟りとは何かって? "よく分からないものだ"...やっと悟ったi?


コメント (6)
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