人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本尊と意識の中心

2018-10-19 12:14:19 | スピリチュアル
「神、導師、真我は同義である」とは、ラマナ.マハルシの言葉ですが、この場でのスピに関する記事では、このニュアンスのものがまっ中心にあると言っても過言ではありません。
私にはあの精神的爆発に与る直前に、それを「南インドの瞑想」という本を通じて読まされていたことが運命的だったのです。知らずに意識に呼び起こされるものがあったのかも分かりません。
それは宗教では捉えやすく、信仰対象として「ご本尊」として受け入れられているものと通じるものなのでしょうが、安易に片付けられていい訳がありません。(ある意味では当ブログのご本尊には違いないでしょうが...)
しかし、これを端的にどう言い表していいか、適切な言葉が無いときてるのです。
法身仏、応身仏、無位の真人、内なるキリスト...これはおそらくそうしたものとつながったことのある人には自明のもので、私自身はただ身に覚えているものに意識を向ける、向いちゃうだけのことで、そんな名称のことなどどっちでもいいことなのです。
そうは言っても...どうか読者諸氏には、この他に向けて発信することの苦心をお察し頂きたい...いや、ただそのものを明らかにし、証し続けることに無上の喜びを感じているだけかもしれません。

それは、そもそも私が意識を失いそうになる苦境から救われたところから発していると何度も書いていますが、この事を具体的に記せば、"飛んで行ってしまいそうな意識に、自ずと収斂されて行くあるものが臨んだ"と言ってもいいでしょう。
それをしばしば現臨と呼んでいるのですが、そこに"意識の中心"がもたらされたのです。
これは何度も言っているように、自分の意志的、意念的なもので、例えばアジナーとかどっかのチャクラなどに意識を集中しようとすることとはまるっきり違うことで、無為的なハタラキによるものなのです。
従って強いてそれに与る、望むコツらしきことを言えば"集中しようとしない、念じないこと"と言ってもいいのです。
"それじゃあ、手だてが何もないじゃあないのi"...ごもっともです。
しかし、念じない程度に注意してみると、この自ずからある中心に意識が向かって行くのが感じられてこないでしょうか?
そして段々安心というか、やすらぎに包まれるのを覚えてこないでしょうか? これは祈り心地になっていたら分かるでしょう。
そうです。意識の中心と安心とはセットのものなのです。そしてそれは"神、導師、真我"の三位一体的なものからきているのです。
私は一頃意識の変容をもたらすのは、ある種のパワーとか波動、プラーナなどハタラキ的なものによるものと、こだわっていた時期もあったのですが、それも欠かせないものには違いないけれど、それだけでは足りないもの、それに片寄ると"覚醒、爆発してハイになりゃいいってもんじゃないi"という事態になってしまうものをやがて感じてきたのです。
三位一体的な現臨の内にあることは、あらぬ意識障害の要因ともなる単なる"スペース状態"とは違うのですi そこには霊なる親、ガイダンス、導師がお在すことを忘れてはなりません。
真我的なものに意識が収斂されているので、中空に飛んで行く感じがしません。
そして、意識が超越的な神的なものに向けられる...自ずと祈り的心魂が生まれる...私は祈りから導かれたのでした。

私はいつも嬉々としてこういうことを書いていますが、これもご本尊様の要請なのかもしれません。
コメント (3)
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