人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

無と現臨

2018-10-02 12:01:52 | 現臨、ハタラキ
これから、ここで述べられることは、あくまで私の"感じ"に基づいているものであり、どこまで正しい理解、妥当性を持ったものかは分からないのです。
この"感じ"というものは、当然のことながら感じ方は人それぞれにあるものですので、"そういう感じもあるのか"と思って読んでいただければ結構かと存じます。

悟りとか覚醒などと結びつけられて意識の変容、拡大、変成意識状態とか言われているものがありますが、それは一様に語られるものなのでしょうか?
私のこれまでの経験では、おおよそ三つの様態が認められたのです。
一つは自覚している範囲で、私がそもそものそうしたことになった最初の事態、"意識が遠退いてゆく、自分もすべてが消えてゆく"ような恐怖を伴ったものです。
あたかも意識のどっかに、ブラックホールの如き穴が開いて、すべてを永遠の無の中へと引き込んでゆくような感じに見舞われるのです。
自分が無くなる...幸福も不幸も無くなってしまうのか? いや恐怖だけがある...それはある意味、苦である...ということはそう感じている自分、少なくとも自意識はまだあるということです。
次にこれまであまりここで語ってこなかった様態なのですが、瞑想が深まった時、眠りに着く直前、最近では二年くらい前だったか、このブログを書いている最中に...そしておそらくは幼少の頃、私が夢遊病に陥っていた時、こういうことになっていたようなのです。
それはごく単純に、この見たままの現実感覚から境界というものが無くなる"感じ"です。
自分は部屋の中に居るのか、部屋が自分なのかボヤけてくるのです。要するにそうですね、分離感が無くなる感じです。
成る程すべて起こることは、起こるだけという感じになります。
感受性が希薄になる...無感動になるというのか、自分が幸福だとも不幸だとも感じなくなるようです。
これは前記の様態と似ていますが、のっぴきならない恐怖感というものはありません。自意識が希薄になっているためでしょう。
まさか、こういうのを涅槃に達したとか言うのでしょうか? "ふーん、それで、何?、全体しかない? 何にも無いじゃんi"
以上の二つの様態については、言わば期せずしてそうなったもので、望んでそうなったとは言えないのです。私から感受性が無くなったら、ホントに私じゃ無くなってしまいますからね。
そして、三つめのものは何度も書いている、このブログのアクメ?現臨、神的なものに捉えられる事態です。
ここでもやはり私は私で無くなる感じになりますが、それは思われた自分でないということで、ずっと内奥で気付いている自分、真我的なものに目覚めさせられるのです。
それと共に原初的、本来的な幸福に与ることが出来ます。それは"私はここにある"という感じと共にあるのです。
そこにはすべてが無に帰すというものでない、生の燃えるような充足感があります。実存、現存...リアルなもの、もはや疑い得ない...
私が本当に導かれたのはこういうものなのでした。導かれるとは、惹き付けてやまないものがある...表層意識では分からないけれども、内奥ではその臨みを望むものがあるということです。
そして又、前二つには感じられないものとして、そこには"普遍性に開かれている"ということが示されます。
自分が無くなるとか、境界が無くなるというのは、全くもって自分の意識がそうなったことを伝えるだけですが、普遍性ということは自他に関わるものであり、自分を含めた共同なる生にも意識が開かれるということになるのです。
それは、前二者と異なり、この見たままの相対的現実世界との関係、人生の表側と裏側とのつながりを示唆するものなのかもしれません。
私がここに惹き付けられるのも当然かもしれません。
私はここに生きているのですから...

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする