人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私につながっていなさい

2018-10-06 11:18:11 | スピリチュアル
前回の続きのようなことですが、悟りというもののイメージーそれは実体などあるものでなく、まさしくイメージしか無いものなのかもしれませんーとして、眩いばかりの、ともすればその場かぎりのものになり勝ちな覚醒、一瞥体験といったものに留まるものでなく、常住そんな境地に居るようなものかな、というものは感じています。
これは宗教的な言い方をすれば常に神的なものと一つになっているようなことでしょう。
こうなると、悟ったとか目覚めたとかいうことはどうでも良くなってきそうです。
そして、又所謂"悟った人"に付いて回るイメージとして"自我、エゴが無い"というものがあります。
しかし、これは現実に則して考えてみればやはりイメージでしかないということが感じられます。
そんな人間この世で生きていける訳ないでしょ。まるで植物人間じゃありませんかi
それを"自分は居ない"とか何で真に受けられちゃうんでしょうかね?
自我から自由になる、その思いのガンジガラメから解放されている、ということは確かにあるでしょうが、それは無くなるという意味じゃないのです。
これは現世的な生活を営みつつ、超現世的なものに根ざして生きることを示唆しているのでしょう。
人生の表側、裏側共々が人の生なのです。これについて小池先生が語っていた「私の生き方はこの相対的現実にあって、絶対的なものを戴いているようなもの」という言葉に端的に言い表されています。
これは何故可能なのかと言えば、神的なもの、現臨に与ることによると言っていいでしょう。
そもそもがそれが表側と裏側と橋渡しなのですから...天と地との柱であり、神と人間の交わりなのです。
個が消えて全体があるのでも、その逆でもなく、"全個"的なものがあるばかりという感じです。
ベルジャーエフは「神が居て、人間が居るのでなく、神人が居るばかりである」と言っています。
この事を目の当たりにした時、私はその圧倒的な事態に目が眩んだのか、その体験そのものに囚われてしまったのでした。
そして、現世意識を取り戻しつつあった時、あの声なき声を聞いたのです。
「私につながっていなさい」
それは常に私の心根に刻まれていて、ぬぐい去ることが出来ないものですが、ある哀願のようなものが伝わってきました。おそらく私がそのつながりのことを蔑ろにしてしまうことを見込んでいたようにも感じました。
そしてその後実際に蔑ろにしていまうと...まるでツキに見放されたようなことが相次ぎ、ズルズルと思考のガンジガラメ地獄に嵌まって行くのでした。
それからいくつかの変遷を経て、ジンジンとあの感覚が身に覚えるように甦ってきたのは、あの声なき言葉の響きと共にあったのです。
単なる思いの記憶でない、身に覚えているものこそは常住のものです。
そしてあの一回性の体験と思われたものも、そうではなくなってしまいました。
今もなお、こうしてそこから現在進行形で気付き、学びを受けて表すことが出来るのです。それはこの常住のものを通じて可能なのです。
私は悟った人間のフリをしようと思ったこともありますが、正直ポンコツ人生だろうと、何だろうとどっちでもよくなりました。
ほんの僅かでもいい、願わくば寝ても覚めてもでありたいとは思いますが...覚えていたらいいのです。
あの響きを...「私につながっていなさい」

コメント (12)
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