人の人生はそれぞれ違うし、誰も同じ人生は歩んでいない...私と同じ生き方をしている人が居てたまるもんか、ってものですね。
何度か書いているように、私は何人もの人世の教師たちに共感し、又その所縁の団体とも関係してきました。
それはあくまで、自分の精神の歴程をありのままに書いているまでで、そういう生き方を奨励している訳でも何でもないのは言うまでもありません。
そういうのは、天才かキ印?という私にしてあり得たのであって、マトモな人はマネはしないものでしょうけど...
それは、私が本格的に精神的な道を歩み始めたことと対応しているのですが、それ以前、新宗教M教団にハマって苦渋を味わったことに起因しているのです。
全く井戸の中の蛙みたいで、その教え以外に真理は無いと信じ込んでいたのです。
その牙城が崩れる発端となったものは、昭和52年秋大学の学園祭でやはり当時の流行りの新宗教の一つだった、GLA主催のパネルに興味本意で覗いたことにありました。
そこでやっていたビデオでは、M教団で売り物にしていた"手かざし"とか、後に福音集会で接したものとは遥かにワザとらしかったですが、"異言"を語っている状況などが写し出されていました。
「ほお、似たような、しかしどっか違うような...何にしても霊界の実証を究明している団体ってのもあるものなのだなあ...」
と、にわかに金科玉条はグラつき出し、M教団に後ろめたい気持ちも交えながらも、GLA関係の本を熱心に読むようになりました。
一月ぐらい経ったでしょうか、書店でその本を目当てにコーナーに行って、すぐ横にあった本を何気なくめくったら、米喜劇俳優グルーチョ.マルクス(丁度その頃そのマルクス兄弟の映画を観ました)に似た髭の人の写真が目に入りました。それが五井先生との出会いでした。
「おお、ここでも霊界の実証をしているではないかi しかし、あの髭といい、あまりオドロオドロしさは感じられないな...」と感じたのはハッキリ覚えていますが、このように、この頃はM教団で受けていたものが余程強かったのか、"霊界の実相を明らかにしているものが真理である"という、固定観念は拭い去れていなかったのです。
それも、徐々にM教団もやめて、GLAも飛び越え、五井先生に傾倒するようになり、その著書を読んでいるうちに、そこで書かれていた神の愛というものに触れたのか、涙がとめどもなく溢れてくるようなことがありました。
いつも言っている、惹き付けてやまないもの捉えられる、という端緒はここにあったのです。
同時にそれは精神的な牢獄からの脱却であり、普遍性を希求する道を開くことになりました。
神的なものは、普遍的なものです。
その後の出口聖師や小池先生、ラマナ.マハルシ、玉城先生らとの出会いでも、私は彼らに普遍性というものを見い出していたのです。
これは理屈抜きに共感することと、切り離せないものとも言えます。普遍性とは又障壁が無いということですから...
それは取りも直さずオープンマインドであることを意味しています。
精神が特定のドグマなど、固着した思念に囚われたままでは、自己の内奥、魂が開かれることはありません。
本当に魂が共感し、障りの無いものに出くわしたなら、自然にそれが第一義のものにならざるを得なくなります。
それは、私のように共感する教師が幾人も居る必要はありません。
一人の教師であったとしても、独善的にならず、そこに普遍的なものが見い出されている、精神にトラワレが無いことが肝心なことなのです。
教師は一人であっても、何人あっても、見えるものでも、見えないものでも我々がつながるものは、すべてで一つのものでしょうから...。
何度か書いているように、私は何人もの人世の教師たちに共感し、又その所縁の団体とも関係してきました。
それはあくまで、自分の精神の歴程をありのままに書いているまでで、そういう生き方を奨励している訳でも何でもないのは言うまでもありません。
そういうのは、天才かキ印?という私にしてあり得たのであって、マトモな人はマネはしないものでしょうけど...
それは、私が本格的に精神的な道を歩み始めたことと対応しているのですが、それ以前、新宗教M教団にハマって苦渋を味わったことに起因しているのです。
全く井戸の中の蛙みたいで、その教え以外に真理は無いと信じ込んでいたのです。
その牙城が崩れる発端となったものは、昭和52年秋大学の学園祭でやはり当時の流行りの新宗教の一つだった、GLA主催のパネルに興味本意で覗いたことにありました。
そこでやっていたビデオでは、M教団で売り物にしていた"手かざし"とか、後に福音集会で接したものとは遥かにワザとらしかったですが、"異言"を語っている状況などが写し出されていました。
「ほお、似たような、しかしどっか違うような...何にしても霊界の実証を究明している団体ってのもあるものなのだなあ...」
と、にわかに金科玉条はグラつき出し、M教団に後ろめたい気持ちも交えながらも、GLA関係の本を熱心に読むようになりました。
一月ぐらい経ったでしょうか、書店でその本を目当てにコーナーに行って、すぐ横にあった本を何気なくめくったら、米喜劇俳優グルーチョ.マルクス(丁度その頃そのマルクス兄弟の映画を観ました)に似た髭の人の写真が目に入りました。それが五井先生との出会いでした。
「おお、ここでも霊界の実証をしているではないかi しかし、あの髭といい、あまりオドロオドロしさは感じられないな...」と感じたのはハッキリ覚えていますが、このように、この頃はM教団で受けていたものが余程強かったのか、"霊界の実相を明らかにしているものが真理である"という、固定観念は拭い去れていなかったのです。
それも、徐々にM教団もやめて、GLAも飛び越え、五井先生に傾倒するようになり、その著書を読んでいるうちに、そこで書かれていた神の愛というものに触れたのか、涙がとめどもなく溢れてくるようなことがありました。
いつも言っている、惹き付けてやまないもの捉えられる、という端緒はここにあったのです。
同時にそれは精神的な牢獄からの脱却であり、普遍性を希求する道を開くことになりました。
神的なものは、普遍的なものです。
その後の出口聖師や小池先生、ラマナ.マハルシ、玉城先生らとの出会いでも、私は彼らに普遍性というものを見い出していたのです。
これは理屈抜きに共感することと、切り離せないものとも言えます。普遍性とは又障壁が無いということですから...
それは取りも直さずオープンマインドであることを意味しています。
精神が特定のドグマなど、固着した思念に囚われたままでは、自己の内奥、魂が開かれることはありません。
本当に魂が共感し、障りの無いものに出くわしたなら、自然にそれが第一義のものにならざるを得なくなります。
それは、私のように共感する教師が幾人も居る必要はありません。
一人の教師であったとしても、独善的にならず、そこに普遍的なものが見い出されている、精神にトラワレが無いことが肝心なことなのです。
教師は一人であっても、何人あっても、見えるものでも、見えないものでも我々がつながるものは、すべてで一つのものでしょうから...。